東京永久観光

【2019 輪廻転生】

じゃ、そろそろ、まとめに入ろう(3)

(2)のコメント欄からの続きとして。


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えのきさんへ。もちろん私も頭ぐちゃぐちゃなんですが、この際もう少し。

「宇宙が数学で説明できる」あるいは「宇宙が数学的に出来ている」ことを期待して「数学は普遍的だ」と思うのではないのです。数学は自然の解明に使われますが、自然の原理を抽出したものが数学であると考える必要はないと思います。

それはそれとして、ここからが本題。素朴に尋ねますが、たとえば「2+3=5」というのは、本当に人間の脳内に限ったルールだと思えますか? 

私はそうは思えない。「●●と●●●で●●●●●」という複数の体験を人間の脳が抽象化したり記号化したりするなかで、「2+3=5」というルールが成立するのだ、という捉え方があるが、その捉え方では見逃してしまうものがあると思うのだ。たとえば(ほんとにただのたとえばですが)、「2+3=5」を我々が計算するときに、脳内で2単位と3単位のなにかが結合して5単位になるというようなことはないだろう(そういう報告をきいたことはない)。じゃあ、「2+3=5」というルールはどこにあるのか。おそらく脳の外にあるのだ。人間の身体とも環境とも無関係にあるのだ。人間は外にあるルールをただ利用しているような感じがするのだ。

――とまで言うと、さすがに勇み足かと思い直し、またもや頭がぐちゃぐちゃに…。

なお、そもそも「2+3=5」というのは形式化された公理にすぎないのだから、もともと宇宙などの現実を反映したものではない、といった数学の捉え方が一般的かと思う。しかし、その点だけなら「数学は仮想だ」とだけ言えばいいのだろうが、「数学は普遍だ」と言いたくなるのには、なにかもう少し気になるものがあるということだ。


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コメント欄で教えてもらった、PICSY blog(http://blog.picsy.org/archives/000281.html)に「数学の普遍性」について、以下の捉え方があった。へえ〜おもしろい! と思った。


objectivity(客観性:言語によって媒介された概念:数学とか)
 ↑
 subjectivity(主観性:身体化された主体の内観)
 ↑
 universality(普遍性:世界の法則:物理とか)

世界をこのような構造をもっているものとして捉えよう。objectivityは、あくまでもsubjectivityの上に成り立つ。そのobjectivityがuniversalityを言及する。言語としての数学が物理の世界を言及するように。だから、数学はobjectivityの世界で、物理はuniversalityの世界にいる。

これってプラトンイデア論じゃん、と最近気づいた。最近、プラトンばっか読んでいるからなあ。なんかぐるぐるまわってるなあ。

universalityをイデアと捉えよう。subjectivityが牢獄の窓から差し込む光で、objectivityは影だ。コミュニケーションとしての光は立体化した影を作り出す。そして、こいつはイデアへの言及となる。

影をみたときに、そこにイデアを見るか光を見るかは自由だ。イデアを見る人には数学に普遍性を感じてしまい、光を見る人には数学に人工的・構成的なものを感じてしまうだろう。


この光と影という卓越した比喩(これがプラトンによる)を、ちょっと勝手に展開させてもらえば――。影は人間が作るのではない。光が作るのでもない。「光と影に関するルール」が作る。つまり、物理現象である「光と影」は物理のルールに拠る。では「●●と●●●で●●●●●」という「光」から、「2+3=5」という「影」ができるのは、何のルールに拠るのだろう。それがいわば数学というルールだろう。ではそのルールはどこに? これは物理現象ではない。物理のルールではない。だからこの宇宙にあるのではない。ではどこに? 人間の脳が作ったのか。そうかもしれない。しかしそれだけでは足りない気がする。「身体化された主体の内観」を「客観性」に映しかえるとき、そのルール自体は人間のものではないような気がするということ。そのルールは主観にあるのでも客観にあるのでもない。どこか他にある。どこか外にある。主観とも客観とも違ったどこかにある。――かもね。

ちなみに、私が「数学は普遍だ」というときの「普遍」は「物理法則」を指すわけではないので、ここにある「universality=普遍」とは違う意味だと思われる。


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dstrさんのコメント:『「存在」概念はあるんですかね?

なにかが「ある」というのは、我々にとって最も根源的な概念や感覚でしょうが、それでもこれすら、人間がニュートン力学の当てはまるスケールにあって宇宙を3次元としてだけみているといった条件に限定される、と考えることができるようですね。

そう考えると、「存在」概念というのは、普遍でもなんでもなく、やっぱり人間の脳内の捉え方だろうということになり、そうするとしかし、やっぱりそれも同じく逆転させて、「存在という形式もまた宇宙を超えた普遍なのだ」と言いたくなってしまうので、しばらく黙っていたい…。

それでも一言だけ。「ある」というのはちょっと人間中心的な概念だと思いつつも、逆に、「A」というなにかに対して「非A」をおくという操作は、なんだか非常に普遍的であるように感じないだろうか。言い換えれば、「数学」が普遍だと感じるというのは、この「否定」が普遍だと感じるのと似ている。少なくとも地球の生物であれば、チンパンジーもミツバチもタンポポも、「否定」という言葉は用いないにせよ、それぞれの生態のなかに「否定」というありようを備えているのではないか(といっても、チンパンジーの生態というような分析自体が、人間の生態に限定されてはいるだろうが)。否定というのは、論理としても、コンピュータの設計としても、絶対欠かせない何かなんじゃないかとも思う。


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いただいたトラックバックについても少し。

みちアキさん。http://d.hatena.ne.jp/michiaki/20050722

わたしは、数学や論理には普遍性はない、と考えています。世界が論理的に見えるのは、「ものごとに規則性を観てとってしまう」人間の脳が見せている夢だ、と。(これは、人間原理のエントリーより上位のレベルの話です)

ウィトゲンシュタインは、数学や論理でさえ、人間が作りあげた規則だ、と言ってしまうわけです。わたしもこれに同意します。

具体的判断がくり返しなされる中で、誰がやってもほとんどいつも同じ結果になる判断は、いわば次第に化石のごとく硬くなり、そのうちに完全に固定化され規則となる」(ウィトゲンシュタイン『確実性の問題』より)

たとえば、ここがファンタジー世界で、誰でも魔法が使えるとします。すると、林檎1個と1個が、1+1が、2だったり3だったり4だったり100だったり、1だったり0だったり、という事象が日常的に観測されるわけです。こういう世界では、わたしたちの世界と同じような数学は“成長”しないでしょう。

たとえば、不確定性原理が、巨視レベルで観察できるものだったら? シュレディンガーの猫のようなものを人間が直接観測できていたら? 数学や論理学は、現在とは違って、はじめからもっとあやふやなものを繰り込んだ形で「固定化」した(もしくは倫理学程度のものにしかならなかった)のではないでしょうか。

こうした議論はなによりわくわくします。引用していくとキリがないですね。いずれも深く感じ入るところばかりなのですが、そのうえで思いつくまま――。

魔法がおこる世界であれ、量子効果が現れる世界であれ、一般の数学とは違っていても、なんらかの数学が成立してしまうとしたら、それはなぜなんだろう、といったことが私の気になるところなんだろうなと思った。

鬼界彰夫ウィトゲンシュタインはこう考えた』は本当に素晴らしい本だった。規則に従うことの源泉が人間の生活にあるというような見方に行き着くところは、興奮した。その一方で、初期のウィトゲンシュタインは、論理というもの(「または」「かつ」「〜でない」という操作)について、どうもそうした人間の生活をいわば超えたものとして捉えていたようにも思える。私が「数学は普遍かも」というときの思いは、それに似ているのかもと思っている。


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安眠練炭(trivial)さん。

論理ということの練習問題をくりかえしやっておられるようなサイトだ。直接のリアクションではないけれど、「暑さ寒さと温度計」(http://d.hatena.ne.jp/trivial/20050727)がまた面白かったので、それに絡め、少し横道に。

温度は一定ではなく、刻一刻と変化する。けれど、温度に関わる秩序はそう簡単には変化しない。だから、温度計があろうがなかろうが、温度はあるのだ。ある意味では、温度は時間を超えてある。

温度という生活は、温度という用語を超えてある、といったことになるだろうか。ここでいう温度計のような位置にあるものとして数学を捉えると(もちろんtrivialさんが今そんなふうに捉えているというのではない)、数学なんてチンケなものにしか見えない。でも、むしろ数学とはここでいう「温度に関わる秩序」のほうだと捉えてみたらいいと思うのだ。そうすると温度が時間も超えてあるごとく、数学も時間を超えてあるみたいな気がしてくる。

ちなみに、温度はどうやら粒子の運動に還元できるみたいなので、この宇宙を超えた現象とは言えないのだろう。おまけに、時間や空間という感覚や概念すら、物理学的には、もっと根源的なもののひとつの現れにすぎなかったり、この宇宙の内部でしか想定できないものであったりするようだ(一方で、《温度が時間も超えてある》というのは、温度という生活体験は歴史上の観測や記述を超えたもの、といった意味だろう)。というわけで、何が言いたいかというと、温度は宇宙を超えることはないが、温度を記述する(というか表象するというか写し取るというか)数みたいなものは、時間や空間を超えるだけでなく、この宇宙すらも超えていないだろうか???


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本当は、宇宙や地球や人間についてすっかり考えたあとで数学のことを考えようと思っていたのだが、どうも順番が逆になっている。