東京永久観光

【2019 輪廻転生】

映画という幸福

犬猫』(日本映画・DVD鑑賞) ASIN:B0008JH80I

力をぬくことの力を強く信じたくなる映画、とでも言おうか。概要はこちらでだいたい分かる。→ http://www.inuneko-movie.com/ こうした雰囲気にピンときた人、その予感はきっと当たる!

役者はみんなとてもいい。町のようす、部屋のようす、みないい。あのような町のあのような部屋で暮らしてみたい、などと思わせる。あのようなところに住んでいる知りあいをふらっと訪ねて場合によっちゃそのまま転がり込むなんてことも若いうちなら2度や3度あっていいと思わせる。いやべつに年をとってからでもいい。

とはいえ、話は実はホンワカとばかりはしていない。榎本加奈子藤田陽子が扮する2人は、幼なじみで気が合わないという、案外ありそうだがとても困った関係。それが望まずして一緒に暮らすことになる。そこは共通の友人の住まいで、友人が海外に出かけて留守番として残された形。中途半端に間の悪い場がにわかに出来上がったしだいで、淡々としつつハラハラは潜むといった日々が重なっていき、やはりというべきか、男づきあいが絡んで、挑発から誤解へ、そしてついにクラッシュ…。

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DVDではメイキングがかなりしっかり紹介されている。これがますます必見。

映画とは人間が集団でこしらえるのであり、限定された日時の限定された場所にスタッフとキャストが乗り込んで必要な機材や道具もすべて持ち込んで作る。その当たり前の事実がなんとも感動に値する。メイキングが面白いというのは基本的にそういうことなのだろう。住居の縁側を撮影するためにブロック塀が壊されたり、アングルの邪魔になる樹木があると大家さんが気を回して切ってしまったり。

路地に長い階段があってその手すりに西島秀俊が腰を掛けてすーっと降りてくるシーンがある。映画ではその意表をつく動きがなんとも鮮やかで驚くのだが、メイキングで「へえあんなふうに撮ったのか」と見せられたときの驚きは、それに負けないし、おかしなことに両者の心地よさは似てもいる。

また、この映画はもともと8ミリ製作した作品を劇場用に作り直したもので、DVDにはその8ミリ映像の断片も収録されている。そのシーンがまた、今みたばかりの映画にそっくりで、それでも役者はまったく別だから、ああ映画って現実みたいだけどやっぱり確実に作り物なんだなと、しみじみ面白い。

ちなみに井口奈己監督は女性であり新人である。男性や年長者でないと映画の現場なんて仕切れない、ということもない素晴らしい証明とも言える。というわけで、みんな若いうちに友達の家に転がり込むようなつもりで映画の2本や3本作ってみるべきだ。べつに老後でもよい。

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メイキング中の微妙なムードに、映画のそれを上回ってぐぐっと心が揺さぶられてしまったのが――。2人が鏡の前で仲良くワンピースを身体に合わせるシーン。傷をした榎本の指に藤田が包帯を巻いてやるシーン。卓袱台に座った藤田がカップのワインを向かい合った榎本に浴びせて立ち去るシーン。なんだこの複雑な緊張感は! 撮影の苦労やカメラ位置が分かってと面白いということもあろう。しかしもっと、なにか演技ということの本質に触れたようで…。

これらの撮影において榎本と藤田は、役柄に応じて互いに力や息を加減する。つまり演技をする。それによって劇としてリアルな関係や空気が成立する。しかしその本番のカメラが回る前後には、2人には素で向き合う時間がたくさんあるわけで、それもメイキングは映画のように記録して見せてくれる。そのとき榎本と藤田の間には、ありふれた生身の人間あるいは同業者や女性同士としての関係や空気がどうしたって生じている。言い換えれば、「素という役柄」に合わせた力学や呼吸が別個に必要とされる。そしてふと気づかされるのは、「劇」の関係や空気を作る技法と、「素」の関係や空気を作る技法とは、けっこう似ていて互いに参考になるのかもということだ。そういう「劇」と「素」が相互に乗り入れるような2人のムードは、『犬猫』の上映会場で行われたイベント(これもDVDにある)における2人の位置にも不可分に繋がっているようで、いっそう不思議。

さらに。これもメイキングで知れるのだが、この監督は本番の撮影に入る前にリハーサルと称して榎本と藤田に奇妙なレッスンをさせている。それは、稽古場のようなところでボールを投げあったりトランプゲームをしたりといった、映画のシーンとはまったく関係ない動きを延々やらせながら、台詞だけをシーンどおりに演じさせるといったもの。じつに独特の方法論というかんじ。

そして本番になると監督は「力を抜いて」をしきりに強調する。過剰な演技をしないでください、もし台詞に間があいても堂々としていてくださいと。こんな演出は初めてでびっくりでしたと榎本も繰り返しコメントしている。

こうした固有の方針や努力が実ってこそ、『犬猫』という物語に固有であり榎本・藤田の2人にも固有としか言いようのないこの雰囲気が生まれた、と見ることができるのだろう。

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劇と素という言葉を適当に使ってみると、考えはいろいろ巡っていく。以下は意味不明瞭ながらその痕跡。

人間に「素」なんて無くてぜんぶ「劇」なんだよ、とも言える。でも今はむしろ、「劇」と言ってもけっきょく「素」なのだと言ってみたい。

「役柄の性格を演じるのでなく役者自身の性格を出せ」ということかというと、そうでもないのだ。役柄になりきる、演じてみるという作為自体のなかに、役者それぞれに固有のへんなものが出てくる。それを素と呼んでも劇と呼んでもいいということ。ある役を演じてみるということが、そもそもきわめて人間的な(つまり人間の素といっていいような)行為なのだ、ということに尽きるのだろう。

人間の素というのは何かを通じてしか出てこないし、逆に何かを通じれば出てきてしまう。そこには一定の必然性があり、その必然性に達すること自体の心地よさというものが、映画には現れるのかもしれない。そういうこと全体が写しとられ映しだされることが心地よいということかもしれない。

しかしこれらを、新しい職場で同僚と飲みにいったら気心が知れて仕事もスムーズにいくようになった、というのと同じだと捉えると、急激につまらなくなる…。

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この映画のよさの秘密を完璧に説明していると思ったレビューをすでに読んでいた。

『偽日記』http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/nisenikki.html(05/05/29)。

こういう場所で、こういう設定で、こういう役者で、こういう撮影をすれば、きっと何か面白いものができる、といった確信について書かれている。《つくるという過程のなかで生まれるものだけによって、映画は十分に成り立つはずだという監督の確信の強さを感じさせる》。いやまったくそうなのだ!