東京永久観光

【2019 輪廻転生】

仰げば尊し我が師の怨


アサヒコム「都立校教員ら180人処分 卒業式の「君が代」不起立で」 (記事コピー

なんとも複雑な心境だが、ともあれ21世紀の東京とは、卒業式で「日の丸」に向かい起立して「君が代」を歌わないとマジに処罰されてしまうような土地なのだ。

しかしながら、一般に、国家という統合や国民という意識をいくらか重んじる人であれば、それに合わせて国歌を重んじるのも道理だろう。そして国歌を重んじるなら起立くらいしたくなるのもわかる。さらには「国歌なんて好きな人だけ歌えばいいじゃないか」ではすまない焦りも理解できる。そうだ、国歌とはひとりで勝手に酔いしれることはできない。みんなで参加しないと国家が成立しないのと同じく、みんなで歌わないと国歌なんて格好がつかない。

ところで、それぞれの卒業式で校歌の方は皆それなりに厳かに歌ったのだろうか。仮にそうだとすると、「君が代」だけがなぜかくも憎まれるのか。それは、国家という集団は学校という集団とは根本的に質が違っており、国家や国歌を疑ったりそれに抗したりすることには、より正当な根拠があるということだろう。そして当然のことだが、国歌一般の問題を超えて「君が代」固有の問題がなにより大きいはずだ。

しかし、「君が代」がとにかく「悪」であることが強調され、国歌自体の功罪に目が行かなくなるとしたら、それも私は嫌だ。さらには、校歌を歌うことのほうは、もうまったく疑われないとしたら、それも嫌だ。だいたい卒業式なんてもの自体が、学校にまつわるさまざまな「悪」をいったんチャラにしてしまうところがあるではないか。国家の歌も学校の歌も、起立して斉唱という行為自体も、卒業式のあとみんなでカラオケボックスに行って歌いまくるのも、いずれもどこまで本当に楽しく美しいことなのだ? 

だから結論として、もし私がその卒業式に出席して「君が代」を起立して歌わされたなら、とても気持ち悪かっただろう。でもそれは「君が代」が嫌なのか、国歌という欺瞞が嫌なのか、卒業式という欺瞞が嫌なのか、それらの強制が嫌なのか、複雑に絡んで解きほぐせず、いっそう居心地が悪かっただろう。

それにしても、自分がむかし学校を卒業したころはさして反抗した覚えもないから、こうした違和感は大人になってしだいに固まったということになる。自分でそうなったのか、誰かに言われてそうなったのか、そこのところがもうなんだかよく分からない。

ともあれ、東京都教委のこうした措置が高じれば、「君が代」で起立するかしないかという、それだけみれば実に瑣末な違いのせいで、仲良しだった友達や師弟の関係にまでヒビが入ることもありえよう。大袈裟だろうか。でもちょっと、たとえば旧ユーゴスラビアなどで起こってきた深刻な紛争すら予感させるのだ。