東京永久観光

【2019 輪廻転生】

マイ講義

●最近、クオリアの茂木さんが近所のあちこちで話題だ(といってもネットの近所)。その茂木さんは、東京芸大で行っている講義をmp3データとしてすぐさま公開している(こちらから)。ちょっとダウンロードして聴いてみたところ……またもや「今度こそ本当に狼が来た!」。●5.15日分の前半。たとえば「π=3.14」という意味的記憶と、「あの時あそこへあの人と出かけたなあ、ああしたなあ、こうしたなあ」といったエピソード記憶の違いを、きわめて重要な観点として語り始める。個人にとっても、人類にとっても、新しい概念が立ち上がるというのは、エピソード記憶が整理・抽象化されて意味記憶に結晶することなのではないか、といったふうに論を大股で早口でどんどん進めていく。●この講義は、たとえばケンブリッジのウィトゲンシュタンの講義に匹敵するのではないか(いやまあウィトゲンシュタインの講義を聴いた経験はないのだが)。しかも書物として体系化され固定化された思考とは違って、今まさに明滅・生成しつつある思考と直に触れ合うのだから、興奮度は限りなく高い。それが一曲99セントで聴けるというのはありがたい。…あそれは別の話か。こっちは無料。しかもこの講義は自宅にいて好きな時間に聴ける。リピートも一時停止も自在。寝ころんでいてもいいし、携帯でメールしながら聴いてもバレない。仮に大学が門戸を閉ざしがちだとしても、エッセンスだけはこうしてどんどん感染するのだから、大変な時代になったものだ。●ネットは今のところ大半が文字情報であり、それに慣れ、飽きもしている。音声データがこれくらい簡単に扱えるようになると、ウェブはまたもや途方もない変転を見せるだろう。だいたい、目で文字を読んで把握しにくかったことが、耳で音声を聴くとよく把握できるこということがある。mp3データに欠けるものがあるとすれば、茂木先生の板書を見ることができないくらいだ。だがそれもチョークのコツコツいう音に集中すれば、描いている文字や図がぱっと視覚として感じられる(というクオリアの奇人がいるかもしれない)。●講義を聴きながら、東浩紀大澤真幸の『自由を考える』も対談だったなあ、あれもmp3で出してもいいんじゃないか、読んでも分かりやすかったけれど聴くともっと分かりやすいんじゃないか、などと思いをめぐらせていた。すると、なんと茂木さんがその本をまさに話題にしだしたので驚いた。それが後半だ。『自由を考える』にあった「理性の狡知」という部分にまず注目した。茂木さんは、その「理性の狡知」というのを、「外形的なふるまいの内在化」と言い換えながら、最も普遍的な認知の原理として、あるいは言語の宿命として、眺め直す。――う〜む、講義内容をここでまとめてもしょうがないか。講義データがまるごとそこにあるのだから。しかし後半の話はさらに面白いのだ。というわけで、ほんの少しだけクリップしておくとしよう。●《オレがしゃべってる言葉のどれをとったってオレが産み出したものじゃなくて、これ誰でも同じ言葉をしゃべるわけでしょ。…言語ってのは、あるいみじゃ…外形的な振るまいの内在化としてあるわけじゃないですか。つまり、われわれはそういう形でしかコミュニケーションできないんですよね。…歴史的に条件づけられてきた、ある固定された、記号を通してしかコミュニケーションできないわけですよね。そこに実はヘーゲル的な、理性の狡知が始まっちゃっているわけですよね。》●《科学というのは、こういう問題を抜きにして、通れないんじゃないか。》●《主観的表象ってのは、…自分自身もすべては把握できないものとして存在しているわけですよね。…それを把握しようとすると、実は、内面的な言語によって、ヘーゲル的な理性の狡知みたいな形で、外形的に把握せざるを得ないわけですよね。》《根本的なわれわれの認知過程のところで、カフカ的な状況は始まっているんじゃないかって気がするわけ。》《心の奥底に最も深い恐怖として入り込んでくるかもしれないのは、実は我々の存在そのもの、認知過程そのものの中にもう必然的に入り込まざるを得ない政治性ですよね。あからさまに政治性を帯びるようなことよりもよっぽど恐ろしいわけで。


●さて、講義の入り口となった、意味記憶エピソード記憶の違いのことは、昔NHKのドキュメンタリーで知った。そのとき私もいろいろ考えた。ちょっとそれも紹介しよう。思考はノイズでずらすことも大事だというし。「柄谷行人はTシャツとは違う種類として在るか?

*最初「理性の巧緻」とか書きましたが、そんなわけがない、「理性の狡知」でした。てへへ。