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【2019 輪廻転生】

★クオリアと人工意識(茂木健一郎)

茂木健一郎『クオリアと人工意識』を買ってきた。

なにしろ茂木さんが「これは久しぶりに本当に自分で書いた本です!」と先日ゲンロンの東浩紀さんとの対談で胸を張っていたから。

ちなみに、それ以外の多数の本は名前を貸しただけであることを以前告白し東氏から大いに叱られていたのを思い出す。

期待したとおり、この本は、本当に考えたいこと、本当に考えるべきことを、ありふれた用語だけでくっきりと浮上させ、気を張らずしかし気を抜かず、丁寧に考えていくのだと、思われる(第三章まで読んだ)

知性や意識とは本当は何なのか。それを描く道具として、いわば親しみとわくわくがセットになった12色のクレヨンを1本ずつ手にしていくような読書。そしていよいよ「知性に意識は必要か」「意識に知性は必要か」をテーマに絵に挑むことになる。

 

ところで、そういえば、最近うちに人工知能が来たのだった。そのアレクサが、今うちに「いる」のか「ある」のか、どっちかなかなか言い難い。それと、奴隷のくせに名前を呼ばないと仕事しないのは、よくない傾向だ。

 

(9月7日)

第四章「知性に意識は必要か」と第五章「意識に知性は必要か」は、まだ答えの絵ではなく問いの絵を描いている感じだった。

この2つの章で、茂木さんは、人間の価値を知性よりも意識のほうに見ているのかなと、私には感じられた。それを表すキーワードが「いきいき」。ゲンロンの対談でも、東氏が同書を褒める決め手として「いきいき」を持ち出すと、茂木さんは「あ〜やっぱりあずまんはわかってる〜」と感動していた。

たとえば引用するとー 《生きる上で大切な幸福は(略)知性よりもむしろ意識の中の体験の質である。少なくとも、「賢い」からと言って、「幸せ」になれるわけではない》 さらには《創造性は、常に「チームワーク」の中にある。課題になるのは、チームの個性をいかに響き合わせるかということだ》

こうした姿勢は、茂木さんがゲンロン対談中に、つい鳩山由紀夫さんとか三浦瑠麗さんとか津田大介さんに携帯電話をかけてしまい、東氏から、社交性の度が過ぎることをたしなめられていた光景を、思い出させる。

しかし、現代日本には、もうちょっと、たった一人きりで、ツイッターなどを日々読み書きしながら、その意識も知性も、それなりに輝かせたり曇らせたりしている人間も、数多いだろう。人間には社交性と反対の極もあり、そこではもしや計算だけの知性のほうがむしろ主役である可能性はないか?

 

「いきいき」の例で、人工知能GPT-2が生成する文章にやはりどこか欠けているのもそれではないかと示唆。《文章が続くにつれてだんだん、何かがおかしいと感じられてくる。全体として、書き手の意図が見えないというか、意味の焦点がぼやけていて、「どこにもたどり着かない」というような印象…》

反対に、意識ある人間の作家が作成した、たとえば「雪国」や「三四郎」なら、《小説全体としてのある「世界観」を示したら、読後においてある感銘を与えたるする》し、《全体としての「姿」というか、指し示す人間観、読後感にこそ独特の味がある》と著者は確信している。

しかしこれについて私が思うのは、人工知能はやがて川端康成夏目漱石の創作をやすやすと超えて正真正銘の芸術を生み出すに違いないということ。だいたい大作家はどうあれ、一般の自然知能が書き散らかす大半の小説だって、全体性や世界観や感銘がホントにあるのかというと、実に疑わしい。

 

というふうに、とても面白い発見や疑問が次々に出てきて、つい書き留めてしまいたくなるのが、この本の愛すべきところだろう。では先を読もう。

 

 (10月2日)

茂木健一郎『人工意識とクオリア』は読み終えている。茂木さんの関心の真ん中にあるのは今なお意識とクオリアだとわかった。そしてそれこそが宇宙と人間の謎の核心であること、しかも、通常の科学ではその解明の糸口がまったくないこと、そこが改めて強調されている。

謎の核心とは、つまり――

《「私」という意識は、この宇宙の全歴史の中で、たった一回だけ生まれて、そしてやがて死んで消えていく》

痛切な思い。この1点を共有できているという確信が、この読書、最大の吉だった。人間や宇宙の探求への興味が尽きないのは、この思いがあってこそだ。

その(私、意識、クオリア)謎の解決の糸口が見えないことは、定式化されてきたが、今回はそれが《「意識」はコピーできるか》《人工知能に「意識」は生まれるか》という象徴的な問いとして示される(カバーにもある)。AI研究が進んだ現在、これはただの思考実験ではなくなったのだ。 

そんななか、茂木さんは、生命・意識・身体を持つ人間への親近感を全開にする。反対にそのいずれも今の段階では持ちえない人工知能開発への懐疑を語る。しかも、私たちの意識やクオリアの謎を解くためにこそ(そうした目的でこそ)人工知能の意識や身体を探求してほしいと希求するのだった!

じつは私個人はこう考えていた。人工知能はむしろ知能だけでいい。意識も身体も生命も切り離して知能だけを解明・開発することで、人間の全体のうちの「人間の知能の本質」そして「そもそも知能とは何か」が、ついに見えてくるにちがいない、と。この本を読んで、考えが少し変わるかもしれない。