東京永久観光

【2019 輪廻転生】

その言論の動機は何ですか

http://diary.lycos.co.jp/view.asp?QnDiaryId=30783&QnCommentid=1974782&QsSortOn=&QsSortType=
http://d.hatena.ne.jp/kouda_dc/20030522#p7
http://d.hatena.ne.jp/jouno/20030522#1053611973
●上記への応答●「通俗に阿諛しない」(jounoさん)。良い響きですね。私もその立場だ、と自分では信じたい。でも、実際にウェブをあちこち覗くと、その正反対の状況も間違いなくあります。思考や議論は、より精密な答えを見つけたいという動機から始める人ばかりではない。そう感じます。対話や論証の細道など破壊してしまいたい欲求、いやそれならまだしも、それこそ単なる揶揄、自己顕示、意趣返し、などなど、「精密な答えを見つけたい」立場からすれば、あまりに不純な動機がうようよしています。言論がなにか別のことの手段になっていると言っていいでしょう。しかし、そうした自己顕示や攻撃のための言論行為をむしろ肯定する、あるいは、それを不可避の生態として認める、そんな哲学もどこかにあるのではないだろうか。ふとそんなことも思いました。厄介ですが、気になる問いではありませんか。たとえばニーチェのような人なら、どう対応するのでしょう。
●しかし、なお一方で願うこと。現実の政治や経済、それどころか教育や科学に分類される行為ですら、どうも精密な答えを求める動機からは結局遠くなってしまうことが大半です。そうであればこそ、思考や議論といった言論行為くらいは、対話や論理といったもののみに忠実でありたい、時には過剰なまでに純粋に。