意識とは? 根本から問い直す

さっき尾美としのりの身体で生じていた意識が、今は小林聡美の身体で生じている。その意識が「あ、身体が入れ替わった」とは思うが、その身体が「あ、意識が入れ替わった」とはそもそも思わない。私たちが「さっき眠った私が今起きた」と思うのと同じ。実はどちらも同一性を証明できない点も同じ!

 

上記とは違う問いとして── 私の心のデータがコンピュータに転送されたとき、コンピュータの中で「さっき死んだ私が今生き返った」と思うのは、私なのか。それとも私ではない別の誰かが思うのか。この問いは昔から非常に気になっているのだが、同じく答えはないのだろう。私であるとも私でないとも証明できない。

 

上に書いたのは『意識はどこからやってくるのか』(信原幸弘・渡辺正峰)を読んでいて考えたこと。

 

ーーただし今回同書で最も注目させられたのは、信原さんが意識をどう捉えているか。その「機能主義」という立場が非常に興味深い。

 

なお、意識をコンピュータにアップロードすることを本気で目指している渡辺さんの本は以下(こちらももちろんダントツに興味深く読んだ)

 

今回 渡辺さんの話で、ぐっと引き込まれたのは、意識の発生は「自然則」として捉えようという考え。なるほど〜! 光速度の不変であれ重力の存在であれ、なぜこんな変なものがあるんだとも言えるが、とにかくそういうことになっているのだから仕方ないとも言える。意識もそうなのだと捉える。

 

(4月24日)

『意識はどこからやってくるのか』を読み返した。

信原さんが推す「機能主義」は、意識が果たしている機能を<それが担っているなら、それには意識が生じているはず>という立場。

渡辺さんは、光の速度がこうあるごとく<理由はさておき意識が生じる、それが私たちの宇宙>として自然則という見方を示す。

機能主義も自然則も、私には新鮮でしかも明晰だった。ただ、それはどちらも理論であり、昆虫であれ人工知能であれ内部に意識が生じているかを体験する方法ではない。ーーいやそんな方法はありえないことを改めて思い返している。むしろ<他の意識を経験できないのに立証はできる>と言えそうなのが、すごい。

 

同書の第一章が公開されている。

意識という「究極の問い」にどう挑むか? 哲学と神経科学の冒険が始まる――。信原幸弘・渡辺正峰『意識はどこからやってくるのか』第1章全文公開|Hayakawa Books & Magazines(β)