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【2019 輪廻転生】

★数覚とは何か?―心が数を創り、操る仕組み/スタニスラス ドゥアンヌ 


 数覚とは何か?―心が数を創り、操る仕組み

著者は数学者から認知心理学神経科学に転身した人だという。「脳は数をどのように理解するのか」という問いにとどまらない、とても本質的な問いにこの本は至ろうとしていると感じた。すなわち「脳が数を理解するとはそもそもどういうことなのか」という問いになろうか。それが観念的に深いだけでなく実際的に広くもある。他にありそうでない本だ。

次のエントリーに対しても示唆は非常に大きいと思う。

http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20110107/p1

通読していないので、また必ず読むこと。ほんの少しだけ引用。

《どんな数学的構築の基礎も、集合、数、空間、時間、論理の概念といった、本質的直感に基づいている。これはほとんど疑問視されることはなく、私たちの脳が作り出す、何ものにも還元できない表象に深く根ざしている。数学は、これらの直感の形式論理化をだんだんに進めてきたと言ってよいだろう。その目的は、そうした直感をより矛盾なく、互いに整合性があり、外界に関する私たちの経験により適応したものにすることである。》 p427

《塩の結晶の構造は、そこに六つの面があると、私たちが知覚せざるを得ない構造をしている。その構造が、人間がこの地上を歩くようになるずっと以前から存在していたのは、否定できない事実である。それでも、人間の脳だけが、面の集合に選択的に注目し、その数が6であると知覚し、その数を、算術の理論と矛盾しないように他の数と関連づけるのである。数は、他の数学的対象と同様、心的構築物であり、その起源は、宇宙の規則性に対する人間の脳の適応に始まるのである。/

 科学者がつねにそれに依存しているので、それが存在することすらときどき忘れられてしまう、科学の道具がある。それは、人間の脳だ。脳は、論理的な機械でも、最適機械でもない。進化によって、脳は、数のような、科学に有用なパラメータのいくつかに対しては特別の感受性を備えているが、論理や、長い連続した計算には特別にうとく、効率が悪い。そして最後に、脳には物理現象に人間中心の枠組みを投影するよう、バイアスがかかっているので、進化とランダムさがあるだけのときに、設計の証拠を発見したと思ってしまうのだ。ガリレオが述べたように、本当に、宇宙は「数学の言語で書かれている」のだろうか? 私は、そうではなくて、数学は私たちが宇宙を読み解くのに使える唯一の手持ちの言語なのだと考えている。》p437(同書末尾)

この本の真の深みは、脳についての知見と数についての知見の両方をしっかり感じ取るところにこそある。その場合、「直感」と「適応」の両方がたぶん核心的なキーワードなのだろう。

 *

ほとんど熟読していないが、とても重要なメモを追加しておく。

動物や赤ん坊が、数をどう把握するか。人も動物以来のものを受け継いでいるようだが、しかし、人だけは、数という表象(言語的な)を身に付ける。そのことによって、たとえば18のものと、19のものとの違いを正確に区別できるし、かつ、その区別がどういうものであるのかを、人だけが理解する(その区別がどういうものかというのは、18と19を理解することで、19と20の違いも理解するし、118と119の違いも1800と1900の違いも理解する、といったようなこと)

<第9章 数とは何か?>では、根本にある問いを改めて問うている。

人の脳はコンピュータか。違う。なぜなら、計算機のように人は掛け算ができない。《その一方で、コンピュータ化学がもっとも不得意なとする、形の認識や意味づけなどの領域では、脳は驚くべき速さを発揮し、勝利するのだ》

神経回路のネットワーク自体も、電子チップの濃密なまとまりとは異なる。

《コンピュータの論理ゲートの仕組みは、脳の原初的操作とは別物なのだ。もしも、神経系の「原初的」機能を探さねばならないとしたら、それはおそらく、一つの神経細胞が、そこに入ってきたインプットの当初の「形」を、その他何千の単位から受容した神経発火との重み付けによって認識する能力にあたるだろう。だいたいの形の認識は、脳の初歩的で直接的な能力であるが、論理と計算は派生的能力であり、まともな教育を受けることのできた、霊長類の唯一の種の脳にだけ可能な性質なのである》

ここはきわめて重要で原則的に知っておくべきことだと思われる。要するに、脳はコンピュータじゃない。この本は、算数が生まれつきできそうな人間はコンピュータみたいな脳をもっているに違いない! という主張ではなく、そうではないという主張をしている本なのかもしれない(全部を読んでいないので、今のところ推測)

しかしながら、多くの機能主義的心理学者は「脳はコンピュータである」という単純な図式に固執はしていない。心理学は脳のモジュールが受け取る情報をどのように変換するかの様相だけに集中するべきだと考えている。

*その一方で、多くの機能主義的心理学者は以下のように考えていると、著者は考える。

《たとえその変換アルゴリズムが今は理解できなくても、そして、たとえ現存するどんなコンピュータも、脳の機能を遂行することはできなくても、脳の機能は、原理的にそういうアルゴリズムに還元できるはずなのだ。この立場に立てば、神経細胞シナプス、分子その他、心の「ウェットウェア」は、心理学には無関係なのである》

*そして、こちらはこちらで、逆の意味で、著者は疑わしいという。

《しかしながら、こちらの、より繊細な方の機能主義にしても、やはり疑わしい》

機械が基づいている本質的原理がその機械について知ることに役立つように、その機械がどのようにして作られているかを発見すればさらに理解はすすむはずだ、と。

DNAの発見がメンデルの概念の激変に役立ったように。

*しかしながら、さらに、このようにも言う(もう一度逆の方向の主張)

《脳の情報処理を計算可能な観点からしか見ない機能主義者の主張は、また別の不幸な結果ももたらしている。この考えのために、彼らは、コンピュータ科学の形式とは合わない、脳の機能の別の側面を無視してしまうのだ。認知心理学が、知的生活における感情の役割という複雑な問題をずっと無視してきたのは、これが主たる原因だろう》

*なるほど、認知心理学は感情の役割を無視してきたのか。

《しかし、脳の機能に関するどんな理論にも、感情は必ずや場所を占めるべきであるはずだ。そこには、数学の神経基盤を探るという、私たちの現在の探究も含まれている》

*このような立場から、著者は、数学と脳を考えている。このあとすぐ、著者はダマシオの『デカルトの誤り』に言及している。そして、こんなことまで言う。

《数学が、なぜこうまで情熱や憎悪の対象となるのかを理解しようとするなら、合理的計算と同じくらい、感情の法則にも注意を向けねばならないのである》

ちなみにノイマンはこう述べていた。「脳の言語は、数学の言語ではない」と。

《機械が、表象されている変数と同等の連続量を操作することによって計算を行うとき、これを「アナログ」機械と呼ぶ》

例:ロビンソンクルーソーの計算機

フォン・ノイマンは、脳はおそらくアナログとデジタルの混合機械であり、記号とアナログの暗号が途切れることなく統合されているのだろうという、素晴らしい洞察を持っていた。私たちの脳が論理と数学に関して示す能力の限界は、なんであれ、非論理的な規則に従っている神経機構の、目に見える帰結なのではないか》

《私たちが数の大きさを比較するやり方を見ると、まさに私たちは、デジタルのコンピュータというよりは、アナログ機械により近いことが示唆される》

数の大小の比較は、コンピュータにとっては基本中の基本だが、脳はそれをするのに、0.5秒もかかる。

《…神経系は、同じ結果に到達するために、莫大な神経細胞のネットワークを動員し、多くの時間を使わねばならないのである》

*このことを本書は詳しく記しているのであろう。

《さらに、私たちが用いている比較の方法を、デジタルのコンピュータに簡単に使わせることはできない》

*そうなのか? コンピュータは万能ではないということ?(いや、できないわけではないけど、そう簡単ではないということか)

コンピュータは、1と2の比較も、1と9の比較も、同時間で行う。しかし脳はそうではない。こうした距離の効果を生み出すようなデジタルのアルゴリズムを発明するのは、脳にはちょっとした難事である。

アナログ機械なら脳に似ている。たとえば天秤。

《つまり、私たちの心の比較アルゴリズムは、天秤が「数を測っている」ようなものなのだ》

ネズミも人も、数を使って大きさを表象しているのではなく、大きさを使って数を表象しているのだ、といったことをランディ・ガリステルは述べている。

 
→ こちらも少し関連 http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20110401/p1