さてまた根本の問い――人間の出現は必然か偶然か。すなわち「決定論か偶有性か」。
『創発する生命』(ピエル・ルイジ・ルイージ)は面白い表現をする。
《科学者は神を玄関から追い出したが、彼をふたたび裏口から招き入れた。神のみならず「神聖なる生命」という概念も裏口から侵入してきた》
決定論の人を「隠れ創造論」とも呼んでいる(著者自身は微妙にどちらともつかない立場にみえるが)
そしてこの「隠れ創造論」を、褒め殺しのようにして鋭く批判する、ジャック・モノーの次の主張が引用されている。実に味わい深い。
「われわれは、われわれ自身があらゆる時代をつうじて必然的・不可避的・整合的であってほしいと望んでいる。あらゆる宗教と、ほとんどあらゆる哲学と、科学の一部までもが、自分自身の偶有性を死にもの狂いで否認しようとする人類の疲れを知らぬ英雄的な努力の現われを示している」(p.22)
さてしかし、これこそがここ数年の私のことだと思わざるをえない。ややこしい話ではない。「自分自身の偶有性を死にもの狂いで否認しようとする」人が私だろう。無神論なのに決定論を捨てきれないでいるのが私だろう。
ただし、こうした話がメインの本でもない。
創発する生命 化学的起源から構成的生物学へ|書籍出版|NTT出版
郡司さんの巻末解説も非常に興味深い。
(2月9日)
「薔薇は原子と分子でできているが、薔薇が薔薇たる所以は原子と分子のみから説明することはできない」
これは創発概念からみた還元主義への批判なのだが、そんなことを知らないと、まるで詩のようだ!
(2月16日)
この本の核心にはオートポイエーシスがあるので、付箋を剥がしながら「オートポイエーシス」と何度もメモし 、はからずもpとかoとかの打ち込み練習。それでも上手くならない。