本を読み始めて面白いと思ったら、とりあえず「面白い」とツイートしておかないと、その後もどんどん面白くなって、もう「面白い」の一言ではすまなくなり、さらに面白くなればなるほど、いろいろ言いたいのにいつまでも何も言わないままになってしまう。そんな本が今また一冊。
『人類はどれほど奇跡なのか――現代物理学に基づく創世記』吉田伸夫
《ビッグバンから百数十億年》《宇宙の時間スケールからするときわめて短く、ビッグバンの直後と言うべきである。その一方》《この時間は恒星の寿命と同程度である。宇宙にとってはきわめて短いが、恒星にとっては、そこそこの時間が経過したこの時期に、なぜ人間が存在するのか》
この問い答えはさておき、宇宙が138億年前に始まったというのに、地球も46億年前には始まったというのは、「なんか早すぎないか」という素朴な疑問を、じつは私も昔から持っていた。ただ、それを真面目に取り扱う本に、私としてはこれまで出会わなかった。この本に出会うまでは。
*
私にとって非常に重要な一冊なので、読書メモを以下にコピーしておく(※は私の補足。それ以外は原文の引用)
<第1部> 宇宙の中の人間
※扉で、テッド・チャン『息吹』を引用している。
「しかし、どんな理由だったにしろ、宇宙が開闢したことに、わたしは感謝している。わたしがこうして存在するのは、その事実のおかげだからだ」
<第1章> 宇宙と原子と人間と
閉じ込められた気体(小見出し)
水は常に高所から低所に流れるのか?(小見出し)
整然たるビッグバン(小見出し)
ビッグバンは空間膨張の途中で起きた(小見出し)
希薄化するエネルギーと残留する物質(小見出し)
惑星系の形成(小見出し)
生命誕生の環境が整う(小見出し)
回り出す生命の風車(小見出し)
多くの元素を含む海に恒星からの光が降り注ぐと、きわめて多様な化学反応が引き起こされる。これが、生命の誕生につながる一連の過程の端緒である。生命の歯車は、恒星が生み出す光の奔流によって回され始める。
※ここが、著者の考えの核心であり、独創かもしれない点だと思う。
※この第1章は、基礎的知識のおさらいでもあり、とてもコンパクトにしかもポイントをみごとに押さえてまとめていたと思う。
※なお、著者のビッグバンの定義には注意したい(インフレーションのことを指す)。むしろ宇宙論ではこの定義が今は適正なのかもしれないが。
<第2章> 分子が生み出す生命
素朴な原子論では理解できない世界(小見出し)
原子や分子が内部に持つエネルギーが厳密に定まるのは、原子レベルでの現象を支配する物理法則が、素朴な原子論ーー量子論ーーに従うからである。
※これは著者が自身の立場や考えを鮮明にしているところ。以後もずっと。
現象の担い手として、原子ではなく場を想定する見方は、前近代では、むしろ主流となる自然観だった。
素粒子は場の共鳴状態であり、特定の値に定まった共鳴エネルギーは、エネルギー、エネルギー量子と呼ばれる。
場を伝わる波動が、エネルギー量子というエネルギーの塊として粒子のように振る舞う過程は、「場の量子論」と呼ばれる。
原子核に引き寄せられた電子の波は、原子核の周囲で定在波を形作る。
...ベンゼン分子では、炭素原子が正六角形の頂点の位置に正しく配列しているが、こうした幾何学的な構造も、定在波が生じることで自然に実現される。
水の融点と沸点が...定数であるのは、水分子同士が結合したときのエネルギーが定まっているからである。
生物の体内では、エネルギーの受け渡しを通じて、生化学反応を担う分子が精密機械のように機能する。その精度は、人間の工作物など到底及ばない。
※たとえば、光受容タンパク質、レチナールの変化。
液体が生命活動を可能にする(小見出し)
化学進化の条件(小見出し)
自己複製するシステム(小見出し)
生命はいかにして誕生したか(小見出し)
...液体の水が存在する惑星上で、さまざまな分子が溶け込んだ水に恒星からの光が差し込むと、高エネルギー光子が任意の分子に大きなエネルギーをまとめて供給するため、光のない水中では起こり得ない化学反応も進行する。
※ここに生命誕生の鍵がある、ということ。
トライアンドエラーの積み重ねによって生命誕生に到達できる確率は、宇宙の規模や寿命を考慮したとき、充分に高いと言えるのだろうか?
これについては、続く第3章で論じるが...
...その前に考えておいていただきたい問いがある。「なぜ宇宙は巨大で、原子は小さいのか」
<第3章> 宇宙の息吹
宇宙の巨大さ(小見出し)
原子の小ささ(小見出し)
一個の分子ですら、時計仕掛けより遥かに高性能の精密機械なのである。まして、個数が20桁以上になる分子が組織化されている生物体は、もはや人間の理解力を超える。
宇宙と原子の狭間(小見出し)
宇宙と原子のスケール格差が重大な意味を持つ。恒星という宇宙的スケールの光源からやってきる光子の数は、きわめて膨大である。
海水中の原子数も、また膨大である。(略)そこに次々と光子がやってきてエネルギーを供給するため、さまざまな反応が起こり得る。
※さらにもう1つの鍵
もし、複数の原子が化学反応をする際、IT機器の接続端子のように、特定の向きに適切な力ではめ込まなければ結合できないのならば、複雑な化合物はなかなか生成されないだろう。しかし、電子などの素粒子は波として振る舞う。エネルギーを吸収した電子が波として広がった後、安定な結合状態へと到達するので、反応は速やかに進行する。量子論の計算では、しばしば反応が一瞬のうちに起きるものと見なす。
おそらく、エネルギーを供給された分子が構造を変える過程でも、それと同じように、電子の波が複雑な波形を描き、それぞれの原子(原子核とその近傍にある電子の集団)が位置を変えながら、安定状態へと速やかに移行するのだろう。
※このあたりにこそ、この世の物質の究極の状態が量子的でなければならない理由が、あるということになろう。
※さらに
星から惑星に至る膨大な光の流れがあったとしても、もし海のある惑星が宇宙に1つしか存在しなければ、果たして生命が誕生したかどうかおぼつかない。だが、現実の宇宙には、無数とも言える数の惑星が存在する。これは、ビッグバンが整然とした過程であり、宇宙空間のどこもかしこも同じような状況にあったため、あちこちで次々と原始惑星系円盤が形成されたからである。
宇宙における人間の位置(小見出し)
進化を考える際に本質的に重要性を持つのは、時間の長さよりも、空間の広大さである。
空間的に人間は、決して特殊ではない平均的な位置に置かれている。太陽系があるのは、比較的おとなしめの巨大な棒渦巻銀河である天の川銀河のディスク(円盤)内部、腕と呼ばれる渦を描くように見える部分に位置する。
※宇宙が広大だからこそ、そうした位置も存在した、という主張なのか?
※次が興味深い記述
空間的な位置は平凡だが、ビッグバンから百数十億年という現在の時間的位置は、かなり特殊である。百数十億年は、宇宙の時間スケールからするときわめて短く、ビッグバンの直後と言うべきである。その一方、天文学的な時間スケールで見ると、この時間は恒星の寿命と同程度である。宇宙にとってはきわめて短いが、恒星にとっては、そこそこの時間が経過したこの時期に、なぜ人間が存在するのか。その理由を考えてほしい。
宇宙は老いつつある(小見出し)
一般に銀河が年老いるにつれて星形成率は低下する。特に、巨大銀河同士が合体すると、星の揺り籠となるディスク部分が吹き飛ばされ、ほとんど星を作らない楕円銀河となる。
星形成率は、矮小銀河の合体が生じる初期にはいったん増大するものの、巨大な銀河に成長してからは、基本的に低下傾向をたどる。恒星が生まれなくなるため、寿命100億年のG型星は、ビッグバンから数百億年も経過するとほとんど姿を消してしまう。
※一方で
…文明を持つ知的生命に限るならば、K型主系列星の方が適しているという説には、必ずしも賛同できない。
いずれにせよ、宇宙は永遠ではない。
…やがて、銀河とは名ばかりの暗黒の天体集団となる。
留意すべきは、「恒星の寿命は、生物の進化に必要な時間に比べてあまり長くない」という事実である。
(地球の)生物進化の時間スケールが普遍的なものだとすると、…
数億年から数十億年の時間を要するステップが何回か繰り返されて、よやく、いわゆる高等生物に至るということになる。
そうだとすると、生物の進化が何度も繰り返される時間的余裕はない。
天体の寿命は限られ、宇宙もまた老いて星を作れなくなる。
この短い時間で確実に生命が誕生・進化するには、宇宙が充分に巨大でなければならない。
※これが著者が最も言いたいことのようだ。
宇宙のインフレーション(小見出し)
宇宙は、ビッグバン以前に、物質が存在せず暗黒エネルギーだけで膨張していた時期があったという説が有力である。
このため、空間内部に潜んでいた暗黒エネルギーが物質のエネルギーに変換されたとき、揺らぎがなく一様で整然とした高エネルギー状態になったと考えられる。
生命が誕生する要件(小見出し)
これまでの議論をまとめると、生命の誕生に必要な要件として、次の3つを挙げることができる。
1. 宇宙は、整然たるビッグバンから膨張していった:こうした宇宙では、膨張によってエネルギー密度が低下したとき、至る所で同じように物質が凝集し、恒星の周囲に惑星が公転する惑星系が形成された。その結果、高温の恒星から低温の惑星へと大量の光が流れ込むシステムが、宇宙全域で数多く作られた。
2. 原子スケールの相互作用は、波動に支配される:原子や分子が持つエネルギーは、「定在波が形成される」という共鳴条件によって特定の値に決まる。共鳴状態は安定しているため、段階的な化学進化が可能になる。
3. 宇宙と原子のスケールには、巨大な格差がある:恒星や惑星の形成は宇宙のスケールに、海中での化学反応は原子のスケールに基づいて進行する。このため、化学反応の総計はとてつもない数に達し、自己複製する生合成システムが作られる可能性は高くなる。
ただし、3に関しては、(※疑いようのない観測事実ではあるものの)明確な理論的根拠がなく、偶然の産物である可能性も残されている。
永劫の時間にわたって独自の物理定数を持つ宇宙が無数に誕生し、それぞれが互いに干渉することなく膨張するという説(※もある)
これが正しければ、多くの宇宙は充分に大きくなれないため生命を宿すことができず、たまたま巨大に膨れ上がった「われわれの」宇宙に生命が誕生したとも考えられる。ただし、このアイデアを検証するのは、きわめて難しいだろう。
※これは多宇宙という考え方だろう。
宇宙の息吹(小見出し)
第一部の議論を通観すると、生命の誕生が宇宙と原子の基本的な物理法則に根ざしていることがわかるだろう。ビッグバンのあり方という全宇宙の状況と、波動性という原子物理の根本的特性が、そのまま生命と結び付く。「生命は物理現象である」と言ってしまうと、まるで生命の価値を否定するかのようだが、実際には、「惑星にへばりついたちっぽけな生物を生かすのにも、宇宙と原子のすべてが必要となる」という壮大な見方なのである。
<道元の仏性>(コラム)
神秘主義的な側面がなく、世界全体が明確な統一的法則に支配されているという道元の思想は、科学と親和的である。
道元が思い描いた仏性は、万物を統一するとともに、あまたの個人が抱く知覚・認識を実現する。この「一にして多」という性質が文系の学者にとっては理解しがたいかもしれないが、理論物理学者には、むしろお馴染みの状況である。
※そんなに似ているか?とは思う。
第2部 知性に至る進化
※冒頭には、スタニスワフ・レム『インヴィンシブル』が引用されている。
レムは
「地球とまったく異なる環境には、いかなる知的生命が現れるのか」というテーマに強い関心を抱いていた。
ソラリス。海全体が一個の生命体。初めての他者である人間が訪れたとき、何が起こるのかを描いた作品。
インヴィンシブル(砂漠の惑星)では、この方法での思索をさらに推し進め、人類の想定を超える異様な進化を遂げた存在を登場させた。
この第二部は、レムが示した奔放な発想に刺激を受けたものである。
以下の議論で、知性に関して2つの点を指摘したい。
1. 知性の獲得は進化の必然ではない ーー第4章
2. 人間の知性は汎用的ではない ー第5章
さらに
知性に関しては、もう一つ重大な論点が存在する。高度な知性は「《自覚的に》何かを考える」能力だと見なされがちだが、本当にそうなのかという問題である。
※これについては第3部で。意識がテーマとなる。
※なるほど、著者は、上記の問題に「そうではない」と答えることを、意識の正体とつなげて、確信しているのだろう(全部読み終わってそう思った)
<第4章> 知性は進化の必然か
※いいタイトルだ~ 本当にこうした問いこそが重要だ。
進化は場当たり的(小見出し)
進化が持つ場当たり的な性格を正しく理解すると、知性がどのように獲得されたかについても、現実的な推測が可能になる。
進化の向かう先(小見出し)
遺伝子は「生物の設計図」ではない。遺伝子とは、置かれた環境に対して個々の細胞を応答するときの指示書なのである。ある化学物質の濃度が臨界値以上になったとき、特定の遺伝子が発動して、タンパク質生産のような機能を働かせる。そこには、「設計図」のように生物個体を統一的に捉える視点はなく、あくまで「このタンパク質を生産せよ」とった細胞レベルの局所的な応答を扱う役割しかない。
※その結果として生物が出来上がったり生存や繁殖が継続されたりするにすぎない、という見方だろう。しかしそれなのに、どうして、1つの細胞や1つの多細胞集合体として、これほど複雑な生物が、これほど精巧に生成し生存し複製までできるようになるのか!(もちろんそれをなすのが進化という原理なのだが、それにしても、生命は、生物は、すごすぎる造形物ではないか!)
進化は、変異と選択の積み重ねによって起こる。ここで注意しなければならないのは、変異は遺伝子に生じ、選択は表現形質に依存する点である。※これまた非常に重要で不可欠な前提だ。
バクテリアは、しばしば下等な生物と思われているが、司祭に観察すると、驚異的な進化を遂げた究極の生命体だとわかる。単細胞だから大したことはできないと思うのは、大間違いだ。排水口のぬめりや構内の思考は、異なる種類が混在するバクテリア集団の作った3次元構造のコロニーで、バイオフィルムと呼ばれる。単体のバクテリアでは生産されないタンパク質を利用して、固体表面への付着薬剤からの防御を実現しており、その協同体制は、単細胞生物のイメージを超える。
バクテリアなどと比べると、多細胞生物は、遺伝子変異と表現形質の間の隔たりが大きい。そのせいで、進化がどこに向かうかは、遺伝子に突然変異が生じた段階では、ほとんどわからない。「知能の遺伝子」なるものが存在し、突然変異でこの遺伝子を獲得した生物が賢くなるーーなどといったことでは、まったくないのである。
※NHK『ヒューマニエンス』最終回の「冒険遺伝子」なども、自らそう形容するとおり妄想の1つなのだろう。
遺伝子に規定された行動パターン(小見出し)
アメフラシの例。
首を振ったり卵を岩に押しつけたりする動作は、遺伝子の司令に従った機械的な動きだったのである。
突然変異によってそうした遺伝子が現れた場合、自然選択の作用で集団内に定着し、アメフラシ一般に見られる生得的な行動パターンを引き起こす。
※この例は、いわゆる下等な生物でも、遺伝子の変異が特定の行動パターンを引き起こす、という基礎的な例だろう。
※重点はここからだろう。
…一部の動物(※いわゆる高等動物)は、生きるのに必要な行動パターンを、遺伝子という比較的堅固な化学構造ではなく、柔軟な可塑性を持つ神経ネットワークの配線パターンにコードするという生存戦略を採用した。知性を生み出すのは、こうした神経ネットワークにおける学習の機能である。
※原理的で重要な洞察というか事実というか。
人間の能では、抑制性のシナプスが興奮性のものより遥かに多いので、こうした興奮は、時間が経つにつれて次第に収まる。※なるほど。
※この著者は、すべての分野において、等しく、不足なく、詳しい人だと思われる。そして生命や知性を考えるのに、欠かせない知識を、やはりうまくまとめる。物理学についても、生物学についても、ということになる。さらには認知科学についても、だろう。
神経ネットワークの学習機能(小見出し)
身体への出力は、それがどんな結果をもたらしたかという知覚情報として再び中枢神経系にフィードバックされるので、状況に適切に対応できたケースに限り、そのときのシナプス結合を強化できるメカニズムが働くこともあり得る。
人間的な行動に関して言えば、前頭前野(さまざまな状況を勘案して行動のプランニングを行う領域)と扁桃体(強い情動をもたらす出来事の記憶形成に関与する領域)の結びつきが強いと、過去の恐怖体験を想起される状況を事前に回避するような行動パターンが、優先的に指示されるだろう。その結果、前頭前野と扁桃体の結合を強化する遺伝子は、自然選択によって定着される確率が高くなるはずである。このようにして、より”知的”な戦略を採用する固体が増えてきたと推測される。
知性の獲得は進化の必然ではない(小見出し)
生命誕生から何十億年、何百億年という長い時間が経っても、知的生命が現れない環境もあり得るだろう。
※そうした例を(仮想して?)しめす。
富栄養化した海でクラゲのようなものだけが漂っている、そんな世界。
ゼラチン質の生物は、魚類や海棲哺乳類が属する食物連鎖には含まれず、その多くは、行き止まり種と呼ばれる食物連鎖の終着点である。クラゲは、栄養分の多い海中に漂うだけの一生を終えると、水に溶けて体内の栄養分を周囲に放出する。クラゲが大量発生したからと言って、その捕食者が現れて食い尽くすことはない。
富栄養化の進んだ海中では、知的生命が絶滅しやすく、何も考えない生物が繁栄する。
何のための知性か(小見出し)
カンブリア紀は、動物の多様性が爆発的に増加した時期である。
アノマロ化リプスのような大型捕食動物が現れたたため、それから逃れるためボディプランに工夫が凝らされたのだろう。
※そのプランは1つだけではなかった
硬い外皮で実を守る三葉虫、5つの眼で索敵するオパビニアなど、さまざまな生物が現れたが、脊索動物は、背側に太い神経管を持ち全身を協調させて素早く逃げるという戦略を採用した。この神経管の一部が脳と脊髄に変化し、中枢神経系を持つ脊椎動物になったと考えられる。
ただし、神経ネットワークを発達させた生物が、生存のあらゆる側面にわたって有利だというわけではない。
その代償は、かなり大きかった
<第5章> 人間的思考の限界
本章では、人間の思考に見られる制約として、次の3つを取り上げる。
1 人間の思考は視覚データを偏重する
2 人間の思考はきわめて緩慢である
3 人間の思考は観念の連合に過度に頼る
3が特に重要(※と著者は言う)
人間は視覚データを偏重する
人間は、嗅覚が衰え視覚優位となった脳を使って思考する。その結果、それと意識しなくても、視覚を偏重する考え方をしている。
時間的奥行きのないパースペクティブ(小見出し)
※なるほど、視覚偏重とは、このような欠落をもたらすのか!
これも初めて知った指摘だ。
視覚は、光を感知することで成立する。光は、人間の動作や重力による落下運動と比べてきわめて高速であり、しかも、空気中ではほぼ直進するので、視覚的な映像は、ある瞬間の光景を切り取ったものとなる。人はしばしば、視覚で捉えられたものを世界の客観的な似姿と思いなす。しかしながら、それは視覚優位の脳が作り出す錯覚にすぎない。
※反対に
直ちに言えるのは、嗅覚優位の世界像が時間的な厚みを持つことである。
自分以外に誰もいない部屋は、単なる無人の部屋のように見える。しかし、嗅覚が鋭い動物からすると、そこは無人の部屋ではなく、「数分前に友人がいた」「以前から家族が頻繁に出入りしている」といった過去の情報を含む部屋としてたち現れる。世界のパースペクティブに、時間の奥行きが感じられるのである。
※この指摘も実に面白い。独創的だと思える(こうした指摘はすでになされてきたのだろうか?)
…人間が何かを見て、その形や距離感を直感的に把握できるのと同じように、嗅覚の発達した哺乳類は、匂いを嗅いだ瞬間に、少し前に捕食者や仲間がいたことをリアルに感じ取るだろう。時間的な厚みを持った世界を実感するのである。
かなり知性が高く教養もあるのに、相対論をまったく理解できない人は少なくないが、脳というハードウェアの特性が時空の理解を困難にしているのだろう。※さもありなん。
※クラゲがまた例になる(ちょっと可笑しい)
例えば、水中を漂うクラゲが突然変異で知性を獲得したとき、彼らは「世界には水のない空っぽの空間があり、そこに水が満たされてい自分たちの生息環境を形作っている」とは考えないだろう。水の満ちた空間こそ世界の基盤だとする物理学を考案するに違いない。水の流速、温度や圧力の変化、溶けている物質の濃度分布などを基本的な状態量と見なし、これらを使って世界が従う法則を記述しよおうとするはずである。
人間はきわめてゆっくりと考える(小見出し)
※ここに人間の知性の本質をとらえるというも、また面白い
…その伝導速度は、運動神経や知覚神経でたかだか秒速100メートルちょっとである。この速度は、血液の循環速度などよりかなり速いが、光速はもちろん、音速と比べてもかなり遅い。
ナトリウムイオンやカリウムイオンは、質量が電子の何万倍にもなるため、軽い電子が電圧に駆動されて速やかに移動する化学変化に比べて、変化のスピードが遅い。
ニューロン同士の結合部位となる砂ぷすでのシグナル伝達はさらに時間がかかる。
1ミリ秒程度を要する。
関与するニューロンの数が増すにつれて、さらに長くなる。
脊髄反射なら、100ミリ秒以下。
しかし人間の脳のようにきわめて複雑なネットワークにシグナルが入力され処理される場合には、数百ミリ秒以上という"きわめて長い”時間が必要となる。
この程度にゆっくりであっても、生存率を著しく下げることはない。落雷から逃げられない程度。
ライオンやシマウマなどでは(?)、ミエリン鞘によって、高速化。
捕食関係と並んで神経ネットワークの反応速度に影響を与えるのが、重力である。
重力加速度は9.8m/秒/秒 つまり0.5秒間に1.2mほど落ちる。
この数値は、人間の場合、それぞれ拍動感覚と体長にほぼ等しいが、もちろん偶然ではない。重力が作用する中で身体を適切に保持できるように進化してきた結果である。
※このような考察をするのが面白い。
…人間はイオンの拡散を利用した緩慢な思考を行うため、きわめて遅いはずの落下がストンと落ちる素早い動きに見えてしまう。その程度のゆっくりした認知スピードでも、重力に抗して身体をコントロウルすることは、決して困難ではないのである。
※重力による落下がこの程度(いわば遅い)だったからこそ、ということになろう。
認知スピードを上げるには、それなりにコストが掛かる。人間の神経系は、生き延びるために最適な反応速度を実現したと言えよう。
“モノ”の認識(小見出し?)
人間の思考が持つ最大の特徴は。連続的な知覚データの中から、何等かのまとまりを持つ“モノ”を抽出しようとする性質にある。単純化して言えば、「空間の中にいくつかの物体が存在し、時間の経過とともに物体の位置や状態が変化する」という形での認識が構成される。
ただし、こうした認識は客観的な事実ではない。物理現象は、場の女状態が連続的に変動する過程だからである。
※このモノという認識に縛られるという洞察、これまた、最大限に重要で、しかも最大限に面白い。そしてまた、そのことが、この世のおそらく実体に近いはずの量子的世界を、なかなか理解・実感できないという我々の弱点につながってくるところが、この本のキモといってもいいだろう。
※一方で
微小な生き物にとっては、物体の移動よりも、周囲の環境に生じる連続的な変動の方が重要である。ダニやヒルのような寄生生物は、宿主を見つけるのに、主に二酸化炭素濃度を利用することが知られている。二酸化炭素のデータを元に認識された世界は、当然のことながら、人間が抱く物体忠中心の世界像とは根本的に異なるはずである。
※しかし上記の戦略は、人間には役立たない。
陸上の大型動物が生きるために対処しなければならないのは、何よりも、まとまった塊として振る舞う物体である。
まとまった物体を感知し、それが何であるか判断する上にで、複雑に配線された神経ネットワークは有用である。神経ネットワークは、知覚データの中から安定した特徴を持つ部分を抜き出す能力を持つ。この能力は、いかなる形状の物体がどの方向に移動するかを認知するのに好都合だ。陸上で生活圏を拡大してきた大型動物に、神経ネットワークの発達した脊椎動物が多いのは、理に叶っている。
※しかし
神経ネットワークでは、連続的に複雑な変動を示すものに対処しきれない…
もしクラゲが究極的な進化を遂げ、さまざまなセンサーを介して感知された流速、温度、濃度などのデータに基づいて、周囲の3次元マッピングを行えるようになったならば、少なくとも水の状況把握に関しては、人間よりも賢いといえるのではないか?
(人間は)
進化したクラゲのように水の状況を直接感知することはできないが、緑の葉陰に紛れた赤い果実や、遠くからそっと近づいてくる捕食者を、早い段階で見つけるのは得意である。
※こうした説明も、さりげないようで、一般人がどうしたらイメージしやすいかを、よく考えて例示しているように思われる。
中枢神経系の反響回路(小見出し)
※興奮の連鎖ということについて
神経ネットワークで感覚器官からの入力が処理され、《反響回路の持続的興奮》という定常的な状態に達する過程は、元のデータに含まれる特徴を抽出する機能を持つ。
神経ネットワークにおけるデータ変換には、数学の「積分変換」と似た性質がある。時間とともに周期的な変動を示すデータがある場合、数学では、その関数に対してフーリエ変換と呼ばれる積分変換を行うと、周波数成分ごとの強度を与えるデータに変換される。
※フーリエ変換は、これを機に、初めて少し調べた。
神経ネットワークを電気的な興奮が伝わる場合も、同じように、大局的な性質の抽出が行われる。
(略)
この仕組みは、(細かな相違点を無視して強弁すれば)信号を送ってきかたかどうかを表す0と1の関数と結合強度の積をとり、すべてのニューロンについて足し合わせた結果に応じて出力が決まるというものなので、積分変換とよく似ている。
…最終的な出力に関与するニューロンの数は急激に増える。その毛化、視覚ならば網膜のかなり広い範囲にわたる大局的な性質が抽出されることになる。
ニューロン同士を結びつけるシナプスの結合強度は、状況に応じて汎化する。最も単純な変化は、興奮の頻度に応じて生じる。
例として、星形が目の前に何度も現れる場合を考えよう。
(略)
…当初は、異なる興奮パターンをもたらす。しかし、段階的にデータ変換を行った結果として、「星形」という共通の性質が抽出された段階では、同じ反響回路が活性化されるはずである。
同様の学習は、もっと複雑なケースでも成り立つだろう。
(略)
…見え方の異なるさまざまな猫に共通する普遍的なもの、すなわち、「猫の観念」と見なすことができる。
※昔書いたブログのエントリーが、自ずと思い出される。
https://tokyocat.hatenadiary.jp/entry/20100821/p1
※思考とは?
その過程で段階的にデータ変換が行われ、どこかで定常状態に達して安定する。このようにして持続性のある観念に到達するのが、思考と呼ばれる神経活動なのである。
※そして…
それぞれの反響回路が特定の観念に対応するのならば、こうした相互作用の関係は施工における観念の連合を意味する。観念の連合は、感覚入力に直接的に依存していない(抽象的・観念的な)思考過程において、枢要な役割を果たすと推定される。
人間的な知性(小見出し)
※ニューロンの話から、本当に、人間の知性を浮かび上がらせる、理路が、素晴らしい。さりげない叙述だが、独創的なのでは?
人間の場合…
視覚を偏重するあまり、出来事の時間的な厚みを感じにくいといった制約が指摘できる。
(人間の)
こうした認知戦略は、物体中心に外界を理解しようとする傾向性を生む。現実の世界は時間的にも空間的にも連続的に変動するが、人間は往々にして、この状況を物と物との単純な関係に置き換えて理解する。生存率を高めるためには、その程度の理解で充分だからである。
※まとめ的
人間の思考は、感覚器官を通じて流れ込んでくる膨大な連続的データの中から、特定部分を物象化(モノとして対象化すること)して抜き出し、その一般的性質を学習記憶に基づいて理解する。このとき利用されるのが、神経ネットワーク内部に生じた定常的な興奮状態だと考えられる。個別的な対象(例えば、眼の前を横切った猫)に関する感覚器官からの入力が、反響回路の活性化という形で実現された一つの観念(猫一般という観念)に収斂したのである。人は、脳の中でこうした観念を連鎖的に形成することで、思考を進める。
※この素直な理解と説明は、素晴らしいと思う(それほど難しく謎めかして首をひねることでもない)
もちろん、特定の観念に収斂しない、言わばモヤモヤした状態で神経ネットワークの興奮が続くことも多い。だが、意識化された具体的思考の根幹となるのは、物象化した対象を観念に基づいて理解する過程である。※そのとおりだ! フランス現代思想とかは、そのことを軽視したり、むしろ軽蔑したりした結果、あんなことになったのではないか。
※なぜここで錬金術か?
物象化と観念を根幹とする思考は、かなり応用性が高くさまざまな領域に適用できるものの、万能ではなく、誤った結論に導くケースもある。
※なるほど。その例が錬金術だという。
錬金術の基本思想は、物質的な性質の原因をエレメント(元素)という形で物象化し、「あるエレメントが含有されると特定の性質が発現される」と見なす考えである。例えば、固さを実現するエレメントが存在しており、鉄はこのエレメントを多く含有するから固く、金は少ないので柔らかいと考える。※もちろんそれは間違っている。
※こうした誤った想定によって
錆やすさがほとんどない水銀に、鉛に少しだけ含有される固さのエレメントをうまく結合させてやれば、金が生成されるはずだ、
といった信念が生まれてしまった。
※遺伝子についても、これに似た誤解がある(現在も)
例えば、遺伝子は、特定の環境下に置かれた細胞がどのように応答するかを定める指示書であり、生物全体の形質を決めるものではない。ところが、「肥満の遺伝子」のように、それを持つと特定の形質が不可避であるかのように思っている人が少なくない。人間は、さまざまな要素が複雑に絡み合ったシステムを理解するのが、本来不得意なのである。
<第6章> 人類を補完するもの
鳥類や哺乳類など子育てを行う動物は、この限界(※他の生物が単純で応用性に乏しい行動パターンしか身に着けられなかったこと)を突破する道を見出した。育児期間中に親を模倣しながら行う学習を通じて、情報を外部とやり取りできるようになったのである。カラスやクジラで観察される「鳴き交わし」はそうしたやり取りの一例である。
ある個体が発した音を耳にした別の個体が、その内容に応答して音を発生させるという社会的行動は、神経ネットワークが高度に進化した一部の種にしか見られない。
※ここで重要な指摘がある
ここで指摘したいのは、外部とのやり取りをするには、情報のコード化に“ゆるさ”が特に重要な役割を果たしたと考えられる。人間の祖先にとってヒョウは恐るべき捕食者であり、その存在を知らせるために声を上げることがあったろう。このとき、否定詞「ない」があるかどうかで、情報伝達の自由度が大きく変わる。同じ「ヒョウ」という音韻を含んでいても、「ヒョウがいる」と「ヒョウがいない」では意味が正反対である。「ヒョウ」はもはや危険性の意味づけがなされたシグナルではなく、否定詞を連結することで意味を反転させられる、機能性をもった言語なのである。
※さらに
本章では、そうした“ゆるさ”が顕著な知的進歩をもたらした例として、「数を数える」ことを取り上げたい。
※否定ということ、数を数えるということ、いずれも人間の知のきわめて特異な点を見ていると思う。
※数を数えるということが、前の章で示された人間の知性の苦手な点を、補うということの、最適例でもあるということのようだ。
※ところで「ゆるさ」というのは神経細胞ネットワークの「可塑性」のことを主に形容しているのだと思われる。
直感できる個数(小見出し)
1個から4個までぐらいは、人間は、直感的に、数えることなく、いくつであるかが把握できる、と著者は述べる。
※そして
人間以外の哺乳類や鳥類でも、チンパンジーやカラスなどのように、少ない個数ならば数えることなく直感的に認識できる種がある。しかし、人間は、「数を数える」というアルゴリズムを見出すことで、先に進むことができた。
個数概念を拡張する(小見出し)
3個を1個と2個にわける ※図が描かれている
元の集まりが2個ならば、どこから持ってきたものであっても、1個を付け加えると、直観的に3個と捉えられる集まりになる。それでは、「付け加える」という操作をどこまでも繰り返すとどうなるか。
直感によると、個数は確定された全体的な特徴だが、あえて、特定の1個をつけ加えたり取り除いたりすることで、「数を数える」という新たな手法が開発される。数を数えることで得られる「個数」の概念は、対象が少数のときにのみ直観的に把握できる特徴を、対象がたくさんある場合にまで拡張したことに相当する。
※ひとつひとつ数えるという行いの、始まりが、「3個を1個と2個」に分けるという行いにあったのでは、という仮説ということになろうか。
数を数える(小見出し)
※数を数える手順について(略)
こうした形式的な手順作業は、一般にアルゴリズムと呼ばれる。神経ネットワークの定常状態を利用するだけでは、比較的単純な観念連合した行えない。しかし、アルゴリズムに基づいて外部の対象に(移動したり目印をつけたりするなどの)何らかの操作を行い、その結果として得られた「個数」を数詞などのシンボルを使ってアウトプットできるならば、さまざまな応用への道が開かれる。
「数を数える」能力を身につけたことは、人類の文明史において瞠目すべきステップである。
※この問い自体が最大限に興味をひく問いだが、著者の答えは…
…「数を数える」とは人間が採用した一つの作業手順であって、人間の認識と独立に「個数」が存在するわけではない。
鳴門の渦潮で渦巻きが何個あるかは、数えることもできない。岩石は、成分や生成過程の異なる様々なパーツが固く合体しており、個数という概念になじまない。
明確に識別できる少数の対象を視覚的に捉えた場合に限り、神経ネットワークによって個別に相当する特徴が抽出される。こうした直観的な対象認識を、アルゴリズムという具体的な手順に拡張したのが、「数を数える」という作業である。
自然数は、その名に反して自然界に存在する数ではない。「数を数える」という作業をアルゴリズムとして定式化する際、個数を表記するために案出されたアーティファクト(人工的な虚構)なのである。
ペアノの公理は、自然数が人工的に定義されたものであり、実在的な何かではないことを明確にする。※そのとおりだと思う。
注に以下のことが書かれている:
…実数が(物理学的な意味で)リアルでないことは、基礎物理学を虚竹する際に重要である。実数の特徴はスケール不変性であり、実数の一部分を引き伸ばしたり押し縮めたりしても、以前と(数学的な意味で)同型の実数体になる。この性質は無限小解析の基礎となる。ところが、ミクロの極限において時空には厳密なスケール不変性がないと考えられており、時空のスケールを変えると物理法則も別の形式に変換される可能性がある。したがって、根源的な物理現象が、時空座標を変数とする微分方程式で記述されることはないだろう。私は、厳密な微分方程式ではなく近似的な積分方程式が、世界の根源を記述する方程式だと推測している。
※注なのに、まさに根源的な世界の在り方と言えるものが、しかもかなり詳しく、理路整然と、説かれているではないか!
“ゆるさ”による知性の進化(小見出し)
…物理的な制約を受けながら、なぜ人間の知的能力は、ほとんど無際限と言いたくなるほどの柔軟性を持っているのか? その理由は、アルゴリズムの利用という、ある種の“ゆるさ”のある手法を開発できたからだと考える。
※ここで重要なことが2つ言われている。
1つは、人間の知的能力について、「ほとんど無際限」という形容を使っていること。
もう1つは、アルゴリズムを、ゆるさをもつものとして、着目していること。
神経ネットワークにゆるさがなければ、特定の入力に対する出力が固定されてしまう。「捕食者が近づいてきたので逃走する」「餌が豊富にあるのでここでしばらく食事をとる」といった硬直的な思考に留まり、戦略的な行動の選択は困難なはずだ。
※ゆるさ、柔軟さという点では、そのとおりだろう。それがなぜアルゴリズムによって超えられるのか?
こうしたゆるさは、いかにして生じたのだろう?
…推測するに、きわまえて複雑化した人間の脳では反響回路が完全に安定した定常状態に到達できず、常にランダムな微小変動をフラフラと続けることに起因するのではないか。こうした揺らぎは、生存に不利な行動をもたらすことも少なくないが、その反面、硬直した観念連合だけでは到達できない斬新が思考を可能にし、人間的な知性を生み出す元になったとも考えられる。
※もやもやこそが、知性に不可欠?
科学の始まり(小見出し)
人間の脳では前頭前野が司令塔となって、多方面から収集した情報に基づいて幾通りもの予測を生成できるように進化した。
多少こじつけに聞こえるかもしれないが、前頭前野が可能にした人間的思考の極みが、科学ではなかろうか。
科学とは、「仮説を立てて検証する」ことを基本的な手順とする学問の方法論である。
ドグマにとらわれることなく、多様な可能性がどこに通じているかを予測する思考法は、前頭葉の発達した人間ならではと言って良い。
思考を模倣する機械(小見出し)
重要なのは、「脳は、ニューロンが導線、シナプスがスイッチ回路に相当する一種の電気回路だ」という見方が誤っており、ニューロンやシナプスそのものが、きわめて複雑な機能を実現する一種の精密機械と見なされる点である。
※AIにも著者は過度の期待をしない
…たとえトッププロに勝てたとしても、囲碁のプロが素人に対して行う指導碁ーー適切な手筋がわかるように相手の実力に応じて打つ碁ーーを遂行できるAIが、近いうちに開発されるとは思えない。
ディープラーニングに基づくAIが役に立つのは、「患者のレントゲン写真から癌の兆候を見いだす」「商品棚付近での動きから万引きしそうな客を特定する」など、カルテに添付されたCT画像や監視カメラの映像のようなデータが充分に蓄積されており、癌・万引きといった探索の目的が明確な場合だけである。
AIに関する格言:ゴミを入れたらゴミしか出てこない
コンピュータの方が人間より優れている点も、いくつかある。
処理スピードが速い
単調な作業でも続けられる
コマンドは正確に実行される
※ここで著者がAIに言及したのは、AIが人間の知性の弱点を補う存在になるかどうか、という観点からだと思われる。
<コラム:カントのアンチノミー論>
著者はカントのアンチノミーに注目しつつ、「現代科学は、カントの主張が必ずしも正当ではないことを明らかにした」と書いている。
※とりわけ、面白いポイントをメモ。
人間の理性で物自体を認識するのが不可能だという主張は、正当である。近代科学の勃興期には、原子論や電磁気学が進展し、原子や場のような物理的な実体に関する完全な理論を構築できるという期待もあった。しかし、こんにち多くの物理学者は、こうした期待に対して冷ややかな眼差しを向ける。現在の最先端物理学で、物理現象の担い手として想定されているのは量子論的な場であるが、この見方が究極的な真理でないことは確実である。時空の変動を記述する一般相対論が、この理論の枠組みに収まらないからだ。また、ミクロの極限にまで外挿すると理論が破綻するため、どこかで根本的に作り替えなければならない。
ただし、究極の理論が完成できなくても、1~3のアンチノミーに関してなら、二律背反を回避することができる。要するに、人間の理性は、カントが主張したほどかたくなで硬直的な思考法に束縛されるわけではない。
ここでは、第1アンチノミーで取り上げられた空間の有限性を取り上げよう。
空間認識が複合的なものであることは、歩行しながら自分の周囲を把握しようとすると感じ取れる。人間が利用するマップには、2種類ある。一つは、自分を含めたさまざまな物体が空間内部に併存するような客観的マップで、視覚的なデータが重要な役割を果たす。もう一つは、自分から見て物体がどのように配置されているかを表す主観的マップで、「手が届くところに扉がある」のように、身体の動きに関する情報と結び付く。
モグラのマップについて。
視覚データではなく、触覚や嗅覚、体性感覚に基づいて3次元の客観的マップを描くのだろう。
※このあと以下の記述がある。これはひょっとして、入來篤史さんの研究について言っているのでは!!
…棒などを持たせて引き寄せられるようにした場合、手は届かないが棒が届く範囲にバナナを置くと、神経興奮が生じる。つまり、自分が身体を動かして操作できる派にに存在する物体が、主観的マップの中に定位されるのである。
アインシュタイン(1917年):
…宇宙全体の幾何学構造が近似的に4次元球の表面になるという理論を発表した。この宇宙空間は、体積が有限であるにもかかわらず、どこにも境界が存在しない。一般相対論を使えば、そうした空間を理性的に考察することができるので、アンチノミー論の反例となる。
第三アンチノミーについて:
カントの時代とは異なり、
…現在の理解では、物理法則自体が厳密に因果的ではないと考えられており、物理法則に従いながら自由が担保される精神を想定することに、何の矛盾もない。
そもそも、物理的な過程を原因と結果に分けることに、原理的な根拠はない。※この話がここでは最も面白いか。
ニュートンの運動方程式は、加速度が力に比例するという形式で表されており、しばしば、力が原因となって加速度が生じると見なされる。しかし、これは正当な見方ではない。場の理論では、運動方程式に場の時間変化と空間変化を表す項が組み合わさった形で含まれ、加速度と力を分離することはできない。力を原因、加速度を結果とみなすことは原理的に困難である。
さらに、量子論になると、変化が厳密な運動方程式に従わなくなる。
因果関係は厳密ではなく、ビッグバンの瞬間に今日の夕食が何になるか決まっていたわけではない。
<第7章> 意識をもたらすもの
※量子論を背景にした意識生成可能論、というかんじか。しかし、ペンローズの仮説とは違い説得力を感じた。
チューリングは
「機械は知性を持つか(あるいは、思考するか、意識があるか…など)」といった問題をやみくもに議論するのは無意味であるとし…
チューリング・テストを提唱した。
※しかしながら
チューリング・テストのように、「外から見て人間が判断する」という方法では、どうしても議論が紛糾する。もちろん、意識そのものを体験することは本人でなければできないが、意識に関与する現象についてデータを収集するだけならば、現在すでに、さまざまな計測機器を用いて実施されている。
意識のレベル(小見出し)
※これに絡んで
いわゆる植物状態とは、脳幹による反射だけが行われ、大脳はまったく機能していない状態。
しかし、臨床的には植物状態と診断された患者の何%かは、一部の大脳機能が維持されていたことが判明している。
意識は複雑な神経興奮がもたらす(小見出し)
※それはそうだろうとみんな思っているが、その証拠などを、どう示せばいいか、といったことが、紹介されていく。
※そして、PCIという手法で、意識のあり、なしが、判定できる、
ということが紹介されていく。
このPCIによる実験結果:
1
従来の手法で「意識なし」と判定されるケースでは、複数あるPCIのすべてが特定の値以下(つまり、神経興奮のパターンが複雑さに乏しい)
2
「意識あり」のケースでは、少なくとも一つのPCIがその値以上
意識されない神経興奮(小見出し)
典型的なのが、小脳の活動である。
小脳の機能としてよく知られているのが、前庭動眼反射である。
その仕組はフォードバック制御ではない。
ここで行うべきはフィードフォーワード制御。
単純な反射ではない。
※それはさておき、
…小脳はニューロンの塊と言ってもよく…
それなのに
なぜ小脳における神経興奮は意識と結びつかないのか。
小脳ではきわめて多数のニューロンが興奮するが、全体的な興奮のパターンにおける複雑さは乏しい。興奮の複雑さが意識をもたらすとするならば、小脳の活動が意識されないのは、むしろ当然のことと言えよう。※なるほど。
無意識下の自由意思(小見出し)
リベットの1983年に発表された論文。
まず運動野に準備電位が発生、それから約0.3秒後に「ボタンを押そう」という意識が生じ、さらにその0.2秒後に筋肉の動きが開始された。
この実験結果をどう解釈すべきか?「自由意思の存在が否定された」と仰々しく主張する向きもあるが、そこまで深刻に解釈する必要はあるまい。意思決定のプロセスにおいて、イニシエーターとなる最初の段階が無意識下だと考えるたけで充分である。「自由意志は無意識のうちに開始される」と言っても良い。
…最初に「ボタンを押そう」と決意した段階が意識されないのは、それが複雑な思考を要しない単純な動作だからだ。目の前に生えが飛んできたカエルは、おそらく「ハエを食べよう」と意識した上で舌を伸ばすのではなく、無意識に反応して獲物を捕獲する。
人間でもそうしたことはありそう。
※むしろ
人間的な行動とは、無意識のうちに動作が始まりそうになったとき、それを拒否したり修正したりすることである。
美味しそうな料理を目にして…
…まともな人間はカエルのように飛びついたりしない。
…その行動プランを前頭前野に送って比較考量し、適宜修正する。
最終的に「次にこのレストランに来たときは、あれを注文しよう」などと決意するのだが、この意思決定は、前頭前野から脳の各部位に「食べようとする意志が生じた」という情報が伝達され、記憶されているさまざまなデータと照合された上で、導き出されたものである。この過程全体における神経興奮のパターンはきわめて複雑となり、それ故に意識化される。これが、自由意志というものである。最終段階において人間的などうかが重要なのであり、意思決定の開始段階で無意識的だったとしても、人間の尊厳が傷つけられるわけではない。
分離脳における複数の意識
…左右の脳で好みが異なる場合、それぞれの半球が別個の意識を持つかのように行動した…
ただし、大脳が半分になったにもかかわらず、精神生活に不完全さは感じないらしく、連絡が取れなくなった半球を偲ぶことはないようだ。
※ここから、何が言えるか(次)
意識は何らかの実体によって統合されているわけではなく、情報の交換によって結果的に統合された意識が成立すると考えるべきだろう。
※統合された意識という、そのような実体はない、というみかたは、よく踏まえておくべきだろう。意識とは何かを考える際に。
…統一感が弱くなった状態を解離性障害という。
私の推測では、脳のさまざまな部位の間で連絡が充分に行われず、機能的な統合が実現できない結果だと思われる。
つらい記憶に起因するPTSDを避けるため、脳が積極的に連絡を遮断するケースもあると考えられる。
意識を解明するには何が必要か(小見出し)
ペンフィールドの時代からすでにーー
…開頭手術の際に、微小電極によってニューロンを刺激すると、音楽が聞こえたり記憶がよみがえったりすることを見出した。
ただしーー
…「意識=ニューロンの興奮」ではない。
※以下がこの章の到達点となる。
1
意識は「ある/ない」という二分法で分けられるものではなく、意識レベルが連続的に変化する。意識レベルは、神経興奮のパターンにおける複雑さの度合いと壮観している。
2
意識は必ずしも厳密に統合されているわけではない。意識が統合されているように感じるのは、さまざまな機能を担う大脳部位が密接に連絡し合うからである。
※そのうえで、著者は、独自に問いかけるーー
「複雑さ」とか「連絡し合う」といった意識と関係する性質は、ニューロンの興奮という物理的な過程に比べて、より“抽象的な”出来事のように見える。
抽象とは何なのか? 抽象化に相当する物理現象は存在するのだろうか? こうした問いに目を向けつつ意識とは何かを明らかにするのは、物理におけるリアリティの問題を再点検する必要がある。
※意識の謎が、ひとつ独自の言葉になったと感じる。
すなわちーー 抽象とはなにか。そして、抽象とは物理学においては何なのか。物理学におけるリアリティを再点検しよう。
<第8章> 場の量子論とリアリティ
※場の量子論のエッセンスが、なんか、わかったような気もする。
…現代物理学の枠内で、意識が持つ異様なまでのリアリティを説明することはできるのだろうか?
渦巻きは実在するか?(小見出し)
真空中を物質の構成要素が動き回るという古典的な原子論…
実体(substance)とは「中身の詰まった対象」であり、実在(real existence)は、空間の中に実体が持続的に存在する状態だと考えがちである。
しかしーー
…場の量子論に基づく世界観によれば、原子や分子、あるいは素粒子すらも、共鳴パターンを表す波が一時的に安定した状態を見せているだけで、確固たる実体とは言えない。
(…)
この世界に、永遠不滅のものなど存在しない。
現実世界がこのようなものだとすると、「何が実在するか」という問いに答えるにも、旧来の考え方から離れなければならない。実在とは、中身の充実した確固たる対象が持続的に存在するのではなく、あくまで場が形作る構造だと考えるべきである。
場は宇宙にあまねくひろがっているが、それだけでは何者でもなく、単なる現象の担い手にすぎない。場の内部に、共鳴パターンのようなさまざまな構造が生まれて、はじめてリアルな物理現象となる。分子や結晶、生体組織、さらには生物個体のような構造を持つ存在は、現象の担い手である場よりも、はっきりしたリアリティを有する。
※ここまで、ほとんどまるごと引用したが、
場の量子論とは何かを知るときの、よい説明なのだろう。
何が実在化を論じるための参考として、渦巻について考えていただきたい。
台風や渦巻はーー
…「実在する」とか「リアルだ」と言ってかまわないように思える。
もっとも、ニュートン力学のような古典的な原子論からすると、「渦巻は実在しない。運動する水や期待の分子があるだけだ」という見方が正統的なのかもしれない。渦巻というのは、膨大な数に上る分子の全体的な傾向性を抽象して得られた概念である。
(ニュートン力学の世界では)渦巻のような集団運動は、人間の思考の中だけにしかない抽象的な存在だと見なされる。
こうした「ニュートン力学的な観点からの否定」を反駁するためには、量子論的な集団運動に関して、もう少し踏み込んで論じる必要がある。
※面白くなってきた
量子論とは、原子スケールの物理現象が波のような振る舞いを示す理論である。
古典的な原子論では、原子とは、それ自体が確固たる自立的存在である。ところが、量子論になると、原子核の周囲に電子の波が安定した定常状態を形成した状態が、原子と呼ばれる。つまり、量子論における原子とは、古典的な原子論で想定されていた「中身が充実した実体」などではなく、波動という「広がりを持った集団運動」でしかない。
波動関数の値の大小に応じて濃淡を付けると、空間内部に一種の模様が浮き上がる。例えば、最低エネルギー状態にある水素原子ならば、原子核を中心とする球対称の模様となる(※輪郭がはっきりしない雲のような形状にみえる球)。
…濃淡模様の濃い部分は、(※波動関数の波の)振幅が激しい領域に対応する。原子内で電子の位置を調べる実験をすると、模様の濃い部分ほど観測される確率が高い。
量子論における世界の光景は、濃淡の模様で表される。ニュートン力学のように、「まず物体が存在し、これが動くことで物理現象が生じる」という段階を踏まない。空間内部に描き出されたさまざまな濃淡の模様が、時間方向に変化する。あるいは、空間と時間を併せた時空内部に、模様が広がっていると言った方が適切だろう。確固たる実体などどこにもなく、濃淡の模様だけが量子論のリアルなのである。
量子論的な世界観に基づいて渦巻を解釈するならば、「実在するのは水や気体の分子であり、渦巻は全体の動きを人間が抽象した観念にすぎない」という考え方は間違いだとされる。分子の構造を表す部分的な濃淡模様と、分子集団の動きを表す全体的な濃淡模様が、ともに量子論的な現象として併存していると考えるべきである。
※渦巻、そして、原子1単位の現れとしての濃淡模様の球、いずれも、量子論的な実在のイメージだ、ということになろうか。
電子が2個になると…(小見出し)
電子が2個のときには、3次元空間が2つ必要となる。
シュレディンガーの定式化をそのまま採用すると、電子の数だけ別々の3次元空間を用意しなければならない。
これでは、いかにも次元が多すぎる。そのせいで、シュレディンガーは、波動関数が電子そのものを表すという主張を撤回し、電子の隔離的な振る舞いを記述する関数だと見なすようになる。
※ここは正確には理解できない…
次元が多すぎる!(小見出し)
しかし、場の量子論になると、こうした不自然な「次元の増大」が合理的に解釈される。
場の量子論では、すべての地点に存在する光や電子の場が、そこで量子論的な振動をする。この振動を行うためのスペース(空隙)は、ニュートン力学などに現れる3次元空間とは別の広がりでなければならない。
上記に関する注:ニュートン力学で使われる3次元空間は、内部に存在する物体の空間座標(通常はx,y,z)で表される。これに対して、場の量子論における「場が振動するスペース」は、場の強度(電磁場ならば電磁ポテンシャル)が座標となる。
この“異次元”とでも言うべき小空間における場の量子論的な振動は、波が閉じ込められたときの一般的な振る舞いとして、共鳴パターンとなる定在波を形成する。定在波のエネルギーは特定の値に制限され、エネルギー量子(エネルギーの塊)となる。
場の振動は、隣り合う小空間に伝わる。その結果、場の定在波が形成したエネルギー量子は、元の3次元空間の中を移動することができる。このエネルギー量子の移動を、人間の作った解像度の粗い観測機器で見たものが、光子や電子のような素粒子が飛び回る過程である。
…科学的な説明とは言い難いが、世界とはカズノコのような構造だとイメージしていただたい。
あらゆる地点に、人が日常的に見ている3次元空間とは別の広がりを持つ空間が存在し、カズノコのツブツブのように世界をびっしりと埋めている。その空間内部に閉じ込められた波が、共鳴パターンとなる定在波を形作るのである(ただし、現実のカズノコでは、ツブツブの内部も3次元空間となるが、場の量子論の小空間は、3次元とは異なる広がりがある)
シュレディンガーの波動関数は、電子場の波動によって形成されるエネルギー量子を1個の粒子と見なし、その振る舞いを近似的に表すものである。それぞれのエネルギー量子は、そもそも別々の小空間(場が振動するスペース)で形成されたものなので、電子という粒子として扱う場合も、一つの3次元空間ではなく、電子ごとに別々の空間を用意しなければならない。これが、シュレディンガーを混乱させた「多すぎる次元」の起源である。
量子論的世界の光景となる濃淡の模様は、場の量子論になると、無数に存在する小空間に描き出される。その次元数は、いくつと数えられるものではなく、1の後に0が何十と続くような膨大な数である。そんな膨大な次元を持つ空間にどんな模様が描かれるか、人間の頭脳では、ほとんど想像することもできない。
※量子論、そして、場の量子論の、エッセンスが書かれているのだろう。ほとんど全文を引用して書き写すうちに、なんとなく、イメージは浮かんできた。この著者の別の解説書も読んでみよう。
正六角形の謎(小見出し)
ベンゼン環:
…隣り合う炭素原子間の結合が一つおきに単結合と二重結合を繰り返すと解釈されていた。
※しかし
現在では、6つの炭素原子が提供する価電子が、すべての炭素原子に等しく共有される共鳴状態を形成することがわかっている。
※そのため
ベンゼン環の形状は、炭素原子を頂点とするゆがみのない正六角形になる。電子顕微鏡を使って直接的に確認できる。
さて、ここで渦巻の場合と同じ謎を提出しよう。「ベンゼン環の正六角形は実在しない。きれいに並んだ炭素原子があるだけだ」という考えは正当だろうか?
※もちろん、正当ではない、が著者が言いたいことだろう。
2個の原子に注目(小見出し)
ベンゼン環は6つの原子の結合だが
話を簡単にするために、
2個の陽子(水素原子核)が1個の電子から構成された、
水素分子イオンを考える。
このとき、話を単純にするために、
2個の陽子がそれぞれ同じ直線上しか動けないと仮定すると、
その量子論的な状態は、
各陽子が動く2つの直線が直交する座標軸(2次元空間)の上に
濃淡をもった帯(両者の距離が0.1ナノメートルになる直接を中心にした帯)の形として表される。つまり両者の距離が0.1ナノメートルのときにエネルギーが最低状態になる(安定するということだろう)
※文章を自分で解釈しつつ、自分でわかるように書き換えてメモした。
※グラフの図が掲示されているので、大いに参考になる。
※しかし、この節は、特に、内容が難しいので、これ以上は
わからない。
正六角形は実在する(小見出し)
※これが結論なのだ。
もし炭素原子の位置をグラフで描こうとするならば、自由度の個数だけ座標軸が存在する多次元空間(すなわち12次元空間)内部の1点が、正六角形という形状に相当する。波動関数は、この1点にピークがある関数になる。濃淡模様で言えば、この1点が最も濃い。
2陽子間の距離が0.1ナノメートルの地点が最も濃いように。
こうした状況で
ベンゼン環の正六角形は実在しない、かどうかを再検討する。
ニュートン力学で水の流れを議論する場合、渦巻が実在するとは言いにくい。個々の水分子が力の作用で運動しているだけであって、渦巻それ自体は、人間の抽象化能力によってイメージしたに過ぎないと考えられるからである。
しかし、ベンゼン環の正六角形の場合、人間の思考は関係ない。正六角形という形状を表す波動関数のピークが、物理的に存在する。したがって、単に炭素原子がきれいに並んだだけの状態ではない。
私が思うに、ベンゼン環の正六角形は、波動関数のピークとして「実在」すると言ってしかるべきである。炭素原子は、うまい具合に正六角形に並んだのではない。場の波動による共鳴状態として、必然的に正六角形という形状を実現したのである。
※この解釈的な説明は、非常に面白い。共鳴状態ということについての説明でもあり、そしてまた、抽象ということが、人間の思考における作用というだけでなく、物理的な抽象というようなものを規定することができ、そうした物理学的な抽象というものが、量子における共鳴状態では起こっている、といった理解ができるのだろう。
実在の新たな定義(小見出し)
古典的な原子論では、実在するのは原子であり、物質は原子が組み合わさったもの、物理現象は原子が動き回ったり相互作用したりする過程だと理解される。しかし、場の量子論では、そうしたボトムアップ的な(哲学用語を援用すれば「還元主義的」な)世界観が否定される。
場の量子論で物理現象の担い手となるのは、電磁場や電子場のような場である。ならば、これらの場が世界の構成要素であり唯一の実在かと言うと、その言い方は必ずしも適切ではない。場はあらゆる地点にあまねく存在しており、場が欠けた領域などないからである。
原子論は真空と原子から構成される二元論的な世界であり、原子が動き回る空虚な領域が想定されている。だが、場の理論は場しか存在しない一元論であり、場が世界の版図を決定する。「場が唯一の実在だ」などと、わざわざ言う必要はない。
原子論における原子に相当するのが、場に生じる定在波である。素粒子や原子、分子は、定在波として実現された安定な共鳴パターンだと解釈できる。ただし、原子論の場合は、原子が根源的な構成要素であり、他はすべて原子から構成されるのに対して、場の量子論では、何かが他を構成する根源的な要素というわけではない。
(略)
原子論における実体は、空間の特定領域に凝集するものとしてイメージされることが多い。しかし、場に形作られる波動のパターンは、たとえ実体のように振る舞うとしても、決して凝集するわけではない。
ベンゼン環について。金属結晶について。これらも安定した共鳴状態といえること。
場の量子論においては、最小の構成要素が組み合わさって物質や現象を実現するのではない。場に生じる波動が、さまざまなスケールで複雑に絡み合いながら構造を形作っている。実在というものが定義されるとするならば、それは、共鳴のような安定した波動のパターンであって、壊れない最小の何かを考えてはならない。
「現象」という語は、原子論では、実在と本質的に異なる表面的な出来事とイメージされるかもしれない。しかし、場の量子論では、むしろ共鳴のような安定的に持続する現象こそが、「実在」と呼ばれるべきなのである。
協同現象と秩序パラメータ(小見出し)
波動が生み出す現象は、共鳴だけではない。
…多数の部分が相互に作用し合うときの振る舞いは、単なる共鳴よりも、遥かに複雑で精妙なものになる。特に、高温熱源からの光が照射され続けるケースのように、エントロピーが局所的に現象し得るシステムでは(※地球であり生物であろう)、自律的に秩序を持つ構造が形成され、そうした構造が協同的に(すなわち、各部分が互いに協力して全体の統一性を実現するかのように)振る舞うことがある。
こうした自律的な秩序形成や、統一性を実現する協同現象は、物理法則に従っているにもかかわらず、まるで特定の目的を目指すかのように見える。(略)特に生物の世界では、共鳴とは比べ物にならないほど複雑にして精妙な物理現象が生起する。これらは、生物物理学と呼ばれる分野で研究されている…
解明された協同現象の事例によって示されたのは、秩序があるように見えるケースを記述するのに、全体的な振る舞いを表す少数のパラメータを導入するのが便利だということだ。
複雑な現象は、一般に、膨大な変数が関与する。気体ならば、すべての分子の位置や速度などである。(略)
しかし、これらの大部分は、ランダムは変動を繰り返すだけで、獅子テムの全体的な傾向性を定めるのに、あまり重要な役割を果たさない。重要なのは、圧力や温度のような少数のパラメータがどのように変動するかであり、それ以外の変数が示す細かな変動は無視してかまわない。
こうした全体的な傾向性を表すパラメータは、しばしば「秩序パラメータ」と呼ばれる。秩序パラメータは、ランダムな揺らぎを含まず、全体的な傾向性を表す量である。
場の量子論からすると、安定した秩序状態が実現されるケースでは、秩序パラメータが特定の値をとる地点では波動関数がピークを持つと考えられる。量子論的な状態を表す濃淡模様で言えば、特に模様が濃くなる領域が現れる。
秩序パラメータは、人間が考案したアーティファクトではない。波動関数のピークや濃淡模様の形状が現れる地点としてのリアリティを持つ。これが量子論における実在、量子論のリアルなのである。
心と物(小見出し)
…この(※場の量子論の)特性を意識のリアリティと結びつけることはできないだろうか?
…仮説の域を出ないことを了承したうえで、読み進めてほしい。
モノとコト(小見出し)
ニュートン力学に従う古典的原子論の世界においては、空間内部に「モノ」が存在することが前提となる。
存在するモノが、時間の経過につれて動いたり変形したりする過程がコトである。
こうした世界観を信じるならば、まず意識主体となるモノが存在し、その変動過程であるコトによってモノに意識が生じると言えそうだ。
しかし、そこに意識が生じるモノとは、いったい何なのか? ※特定が難しい。
こうした問いに対して、旧来の意識論では、答えるための手かがりすら見いだせなかった。とすると、問い方そのものが間違っていると考えるべきだろう。「まずモノが存在し、モノが変動してコトになる」という世界観がまずおかしいのである。(略)意識とは何かを理解するためには、ニュートン力学のような古典的原子論を脱却する必要がある。
場の量子論は、古典的な原子論とは異なる。
物理現象は、場に生じたさまざまな波動の振る舞いだと解釈できる。
モノとコトが一体化しているのが、場の量子論の世界である。
波動性の表れ方は、状況によって変化する。
身の回りに存在する通常の固体では、さまざまな結晶が雑然と入り混じっているため、量子効果は結晶間で打ち消しあって、表面に表れない。
これに対して、意識を生み出す神経ネットワークの活動は、巨視的ではない。膜電位の変動は、膜タンパク質を介してイオンが出入りすることによって生じるものなので、精密機械として作動する高分子に支えられた、量子論的な過程である。
意識は、量子論の領分に属する。
生命と秩序(小見出し)
生命が引き起こす出来事は、秩序パラメータの変化として表される協同現象が、いくつも組み合わされたものである。中でも神経ネットワークの活性化は、この世界で最も複雑でありながら秩序だった現象と言って良い。
※ニューロンの活動は、巨視的ではないといいつつ、秩序パラメータとして最も複雑だ、とも書いている。この2つは反対のことのようにも思えるが、そうではないということになろう。
ニューロンの興奮は、それ自体が複雑な秩序を体現している。膜電位は、膨大なイオンの集団的な振る舞いによって決まる秩序パラメータである。(略)重要なのは、イオンの全体的な流れがどのような傾向性を持つかである。この傾向性と膜電位の関係は、方程式にきちんと従う協同現象であると解明されている。
高度な知的能力を実現する反響回路も、神経ネットワークの各部分が協調するかのように振る舞う協同現象である。
生命活動とは、秩序だった物理現象の集積である。神経ネットワークで生じる意識に関しても、物理現象における秩序に目を向けて論じなければならない。
神経ネットワークにおける物理現象は、ベンゼンなどの多原子分子と同じように、濃淡模様として表される量子論的な構造を示すはずである。ただし、多原子分子より遥かに繊細で錯綜した構造になるだろう。
量子論的な構造自体は、多原子分子のような非生物的な物理現象にも見られるごくありふれたものである。だが、人間の神経ネットワークに生じるほどの複雑な構造となると、少なくとも地球上では、一部の生物における中枢神経系以外に存在しないだろう。ここで「複雑」と言ったのは、量子論的な構造が、きわめて巨大な次元を持つ空間に広がっていることを意味する。
神経ネットワークが活性化する場合、各ニューロンの膜電位などの多くの秩序パラメータが絡み合うので、関与する次元数は、ベンゼン環に比べて少なくとも数桁大きい。神経ネットワークの活動における複雑さは、物理学的には、この膨大な次元数に由来する。
※ここで疑問あり。神経細胞のネットワークの次元数が膨大なのと同じように、たとえば目という組織の次元数、膵臓がインスリンを分泌するときの反応の次元数なども、膨大なのでは? もしそうなら神経細胞のネットワークだけに意識が生じる理由を、説明する必要があるのでは?
意識レベルの起源(小見出し)
意識レベルは、神経ネットワークが活性化した際の複雑さと関係する(※第7章におけるPCIの議論などでしめされた)。私は、意識レベルを決定する複雑さの指標として、「関与する次元数」を提案したい。
意識は「ある/ない」の二分法に当てはまらないと言ってきたが、意識レベルと次元数を結びつければ、この状況が(※も)理解しやすいだろう。
(だが)、ふつうの人が実感するような「人間的な」意識となると、神経ネットワークにおける反響回路のように、きわめて次元数の大きい複雑な協同現象が実現されたときだけ生まれると考えられる。
※以下のほうがもっと響くものがあるーー
ここで言う人間的な意識は、「意識主体が感じる何か」ではない。そもそも、(これまでの説明で示されたように)意識主体など実在しない。巨大な次元数を持つ量子論的状態という物理的な実在が、すなわち意識そのものなのである。
※とはいえ、これは、かなり強い主張(同定)でもあろう。
地球上で量子論的な状態を濃淡模様で描き出すと、ところどころに模様のきわめて濃い部分が、まるで何らかのモノが存在するかのように浮かび上がる。模様が濃くなるモノの存在を彷彿とするのは、秩序パラメータに支配され安定状態が持続する領域である。その中で、関与する次元数が特に大きな領域をピックアップすると、他の部分との連絡があまり密でない分断された領域に見える。私の仮説によれば、多くの人が意識主体と呼ぶのは、こうした分断された領域のことである。
※先ほどと同じような疑問だが、このように次元数が特に大きいために分断されているように見える領域は、生物の身体の活動のなかで、神経細胞のネットワーク以外には、見当たらないのだろうか?
意識と行動(小見出し)
知的など動物の場合ーー
…異質の情報を同時に処理するため、興奮するニューロンが多岐にわたり、それだけ次元数も増える。その結果、状況に応じて最適の行動プランを策定する過程は、意識レベルがより高くなると推測される。
※行動なき純粋な思考はないだろう、という著者の考えーー
…抽象的に思えても、言語概念を想起する際には、発生に使用する口中の筋肉をわずかに動かしていることが多い。
たとえ身体をはっきりと動かさなくても、意識は行動と結びついている。
人ならざるものの意識(小見出し)
まず、はっきり言えるのは、現代の技術で製造されたAI(人工知能)に意識は生じないということである。
(※ニューロンと違って)…外発的な制御では、協同現象による自律的な秩序形成は行われず、高い意識レベルに相当する複雑な量子論的構造は生み出されない。
カラス、チンパンジー、イルカーー
意識があるとしか思えない行動をとる。
カエルやトカゲーー
答えにくい。
…明確な線引きはできないと言い訳しながら、議論を避けるしかない。
人間の場合でも、胚から胎児、乳幼児へと成長していく際、どの段階で意識が生じるかは難問である。
我思う、故に我在り(小見出し)
※著者の意識に関する考えの核心部分とも思える
古典的な原子論によれば、まずモノが存在し、モノの変動としてコトが生起する。この考え方を意識に徹起用すると、まず意識主体が存在し、その内面的な活動として意識が生起するはずである。しかし、意識の問題にこうした論法で立ち向かい、うまく解決できた論述を目にしたことはない。
場の量子論では、異なる方向から議論を進める。エントロピーが局所的に減少するような条件下で、自己複製能力を持つシステムがダーウィン流の進化を遂げ、環境に適合するように複雑化していく。その結果として、量子論的にきわめて複雑な構造が形成され、意識が実現される。
意識が実現されるほど高度に複雑化されたシステムは、環境に関する認識を構築していく。そうした認識には、システム自体の状況も含まれるだろう。かくして、このシステムは、環境中に存在する自己についての認識を作り上げる。つまり、意識は自己の存在に先行するのである。哲学史上の名言を借りれば、「我思う、故に我在り」ということになる。
注:デカルト自身は意識と身体との関係を解明することができず、奇妙な心身二元論を提唱するに至る。
※ここでいう「意識」は、コンシャスネス=覚醒しているという意味よりも、自己意識という意味のほうに近いとも、思える。
これと似た考え方は、場の量子論が構築される遥か以前から提唱されていた。意識があるからこそ意識主体の存在を議論できるのであって、意識の主体の存在が意識の条件ではないという主張である。
…そうした(※上のような)考えに到達できたのは、「意識がある」という状況に圧倒的なリアリティが感じられるからだろう。「意識がこれだけリアルなのに、それを生み出す別の存在を措定する必要があるのか」という疑問が背後にある。※けっこう奇妙な論旨だとは思うが。
では、なぜ意識にこれほどのリアリティがあるのか?
この問題について、私は、単純に「意識がリアルだからだ」という立場を取る。
…巨大な次元数を持つ協同現象が生じるとき、そこで形成される量子論的な構造自体がリアルなのである。
石ころについてーー
…現在では、内部に安定な定在波が形成され原子が整然と配列された結晶構造ができることが、そのリアリティの根拠だとわかっている。意識のリアリティも、場に生じる量子論的構造が結晶と同じようにリアルだからと解釈すれば、説明として充分である。リアリティをもたらす仕組みを、それ以外にわざわざ案出する必要はない。
※さて、著者の考えについて:石も意識もすべては量子論的構造から生じる、という点は独創的かもしれないが、石の存在の仕方と、意識の存在の仕方は、明らかに異なる(永井均なら一顧だにしないかもしれない)。すなわち、石は外部にあり、意識は内部になる、と言いたくなる。そこは結局気になる点なのだが、ともあれ、次の節は、それに関連しているようだ。
自分だけがいる世界(小見出し)
…主観的世界の表象では、自分だけが特殊な存在である。自分以外の人間は、主観内の存在様式という点で、自分とは異質だと感じられる。
よくよく考えると、このことは実に不思議な状況である。人によっては、主観的世界とは心を“内側”から見たものだから、自分だけ特殊なのは当然だと言いたくなるかもしれない(※私の場合はたしかにそう言いたくなる一人だ)。しかし、心の“内側”とはいったい何だろうか?
※一般にーー
経験的にも科学的にも、きわめて高い確実性が示されているのが、法則の斉一性である。
…「この物体だけは運動方程式の形が他と少し異なる」ということはあり得ない。
ところが、意識に関しては、法則の斉一性が成り立っていないかのようである。
…「自分の意識がある(我思う)」という強烈なリアリティが感じられる主観的世界において、自分の脳(あるいは、意識をもたらす主体的なモノ)は他者の脳と明確に峻別される。
法則の斉一性と意識のリアリティの間に齟齬があるという感覚は、多くの人が抱いていたらしく、少なからぬ民族が、物質や身体が属する客観的世界とは別に、主観的な世界(=心の内側)を実現する《霊魂》のような実体をイメージした。《太郎の霊魂》という特別な実体が宿った身体に、太郎の意識が生じるという発想である。しかし、この発想を現代科学の領域に持ち込むのは、現実問題として困難である。
※霊魂という発想の原点が、意識の主観性だった、という見方は、たしかにそのとおりだが、案外だれも定式化していなかったように思う。
※とはいえ、霊魂は科学的ではないから、意識の特別さも科学的ではない、というふうな説明では、納得しがたいところもある。しかし、結論としては、著者はこのことを長く深く考えていることは、明らかであり、ともあれ、興味深い。
場の量子論に基づいて意識を論じると、こうした困難がほぼ解消される。この理論によれば、意識は秩序パラメータに支配され安定状態が持続する領域の中で、特に次元数が巨大な領域を指す。こうした領域は、ベンゼン環の正六角形が実在するのと同様に、物理的に実在する。
意識についてまとめると…(小見出し)
進化の過程で、予測能力を高めるために神経ネットワークが複雑なものとなったが、意識は、こうした複雑化に随伴して生まれた。それ自体が目的だったのではなく、あくまで生存確率を高めようとする進化に伴って、結果的に生じたにすぎない。
※これはこれで、そのとおりだろうが、直後の補足も面白い(以下)
こうした考え方を不快に感じる人がいるかもしれない。人間の心が、単なる物質的な現象に随伴するおまけのように扱われているからだ。おそらく、そうした不快感の背後には、「単なる物質」と「崇高な精神」の2つを対立的に捉える価値観が潜んでいるのだろう。この価値観こそ皮相的な見方でしかない。※単なる物質だからといって崇高な精神に通じないとはかぎらない。
ただし、物理現象だけで人間のような複雑な生命体を作り上げるのは、自然界にとっても至難の業である。高温お厚生から冷たい海へと膨大な光が流れ込み、想像を絶するほど多数の反応が繰り返されるうちに、偶然の結果として高いエネルギー状態にある高分子が形成される。さらに、何億、何十億年の歳月が経過する間に、ダーウィン的な進化過程が繰り返され、生命の誕生から知性の獲得に至る。※クリシェといってもいいような説明だが、やはり、そのとおりだろう。
※その背後に原子の宇宙の巨大なスケール格差が不可欠だったということをも、改めて述べられる。
人間は、宇宙の片隅で生まれた。とてつもなく巨大な宇宙と比べると、どうしようもないほどちっぽけな存在でしかない。だが、別の見方もできる。人間というちっぽけな生き物を誕生させるにも、宇宙の広さと長い長い歳月が必要なのである。
人間とは、そうした存在である。※本文終わり。
<アリストテレスの質料と形相>(コラム)
アリストテレスの偉大さは、仮説を立ててどこまでの考え続けたことにある。
「質料」とは… 自然界における基本的な実体を意味する。アリストテレスの考えによれば、自然界に完全な空虚(いわゆる真空)はなく、空間は何等かの質料に隙間なく満たされるという。
つまり、アリストテレスが質料と呼んだものは、現代物理学における場なのである。
…彼の自然観を現代科学と結びつけることは不可能ではない。質料を量子論的な場、形相を統計力学的な法則性(※傾向性という言葉も著者はよく使う)と解釈するならば、ビッグバンから生命の誕生に至る家庭を、アリストテレスの哲学用語を使って大づかみに捉えることもできる。
<おわりに>
本書は、知性や意識を含めて「人間を物理現象として捉える」という向こう見ずな試みである。
最近の科学者は、こうしたジャンル横断的な議論をしたがらない。
世界全体を俯瞰的・大局的に眺めることは、他の専門家の領域侵犯になるとでも感じるのだろう。
私が目指したのは、複雑に相互作用するそれぞれの要素に目を向けつつ、錯綜しながらもめ明瞭な具体性を持つ全体像を作り上げることである。
…こうした議論を行わなければ、他ジャンルに目を向けようとしない閉塞感に侵された現代科学の状況を打開することはできないだろう。
=終=