東京永久観光

【2019 輪廻転生】

万能の一服、万能の一冊

体の困難には1つの薬がわりとみんなに効くのだから、頭の困難にも1つの本がわりとみんなに効いてもよさそうなのに、まったくそんなことはない。なぜだ。ただ私がそんな万能の1冊の本をまだ見つけていないだけなのか? あるいは、まだ誰もそんな万能の1冊の本を書いていないだけなのか?

「頭は体ほど単純じゃない」と言われるかもしれない。あるいは「おれの頭はおまえの頭ほど単純じゃない」と言われるかもしれない。あるいは「人間の頭はAIの頭ほど単純じゃない」と言われるかもしれない。だが、そうだろうか。

たとえば『偶然の科学』(ダンカン・ワッツ)なんてのは、けっこう万能の一冊だと思う。
 偶然の科学

さらに言えば、やっぱり統計はひょっとして万能の薬なんじゃなかろうか。

すなわち『統計学が最強の学問である』(西内啓)
 統計学が最強の学問である 
http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20130809/p1
――こんなことを言うとクリント・イーストウッドに嫌われそうで、多くの人にも嫌われそうだが。


あいまいな問いにはあいまいな答えがある。あいまいな症状にもあいまいな対処があろう。ただ、あいまいでないのが偉いとは言わないが、あいまいなのが偉いとも言えない。(とはいえ、あいまいだな、私は)


どうせなので『偶然の科学』をレビューしよう。最初から最後まで覚醒的で有益だった(実用的ですらある)が、最も面白かったのは第9章「気まぐれな教師としての歴史」。

たとえばこんな一節。《もちろんわれわれは、やがてこの魅力的な銀行強盗たちの運が上向いてくるのを知っている。事実、ことばの壁で愉快な失敗を何度かしたあとで、そのとおりになる》 これはなんと映画『明日に向って撃て!』について書いている。「進行中の歴史は語りえない」の一例として。

《だがわれわれは、いずれそれが涙の結末を迎え、ブッチとサンダンスが拳銃を抜いて隠れ場所から銃火のなかへ飛び出していき、永遠のセピア入りの画像のなかで凍りつくのも知っている。
 では、ボリビアへ行くことにしたのは正しい決断だったのだろうか、それとも誤った決断だったのだろうか》

私たちはいろんなことを予測したがり予測できると信じ予測できたと感じるが「実はまったくそうではない」と、『偶然の科学』は前半で切々と説いていく。ロケットの飛ぶ先は予測できても、流行や株価や天気や選挙は複雑すぎてほぼ予測できない。でも予測できると錯覚させる1つが歴史という物語。


 *****


読書メモを以下に記しておく。《 》は地の文。*印は私の補足など。


<第一部> 常識

<1 常識という神話>

<2 考えるということを考える>

われわれは、市場や政治、文化に、精通していると、自分では思っている。だから、物理学や生物学などの問題とちがい、こと人間や社会の行動に関するかぎり、すでに知っていると自信のあることを理解するために、わざわざ金も時間もかかる「科学的」研究を行うのは無駄だと考えがちだ。

※しかし
常識が裏切る仕組み
出来事があってはじめて説明を求めるせいで、「起こってもおかしくはなかったが起こらなったこと」よりも「実際に起こったこと」の説明に偏りすぎる。そのうえ、われわれが説明しようとする出来事は「興味を引かれるもの」にかぎられる。

何が関係しているのか?
われわれの行動にきわめて現実的、具体的な影響を与えるにもかかわらず、もっぱらわれわれの意識しないところで動く「関係要因は実に数多く」ある。心理学の実験が明証していることを一言でまとめるとこうなる。

フレーム問題が、ここからもたらされる

われわれは自分がこう考えると考えるようには考えていない

金銭的なインセンティブで仕事への意欲も増すはずと直観的に考えるが、ごく簡単な作業であっても権利意識が増すがために意欲が大きく殺がれる。実験によれば、報酬額の多寡によって、仕事の出来はまったくかわらなかった。

見せかけの自己予測能力は大きな偽りだ。

理由は2つ。フレーム問題が教えるように、ある状況に関係のあるすべてを知ることは不可能だから。関係がありうることの多くはわれわれの意識が及ばないところにあるから。*この章の結論といえる。

<3 群衆の知恵(と狂気)>

モナリザが有名なのはモナリザ的だからだ、と言っているにすぎない。シェイクスピアも、ハリーポッターも、ハングオーバー(映画)も。

どの例でも、われわれは、Xが成功したのは、しかるべき特質を備えていたからだと思いたがるが、われわれが知っている特質はXがの持つ特質にかぎられる。だから、そうした特質が栄光の理由にちがいないと結論する。「Xが起こったのは人々がそれを望んだからだ。人々がXを望んだとなぜわかるのかというと、Xが起こったからだ」と。

ミクロ・マクロ問題

現実のひとつの階層(スケール)からつぎの階層をどう導けばいいのだろうか。
物理学〜化学〜生物学〜

全体の行動は部分の行動にたやすく結び付けられない。だからこそ、創発は困難な問題なのである。にもかかわらず、社会現象に関しては、われわれはたしかに家族、企業、市場、政党、人口階層、小棄民国家などの「社会的アクター」が、それを構成する個人のように行動するものとして論じる。*それは無茶だということ。

ラノヴェッターの暴動モデル 
*これをワッツは完全には肯定していないと思われる

実験社会学

*ワッツら自身が実験を行った。ミュージックラボ実験。
どの曲が最も人気を集めたかは世界によってちがっていた。社会的影響が質の優劣まで完全に消し去ったわけではない。しかし、最もすぐれた曲でも一位になれないときがあり、最も劣った曲でも健闘することがあった。そして、並の曲は、ほとんどどんな結果でもありえた。

個人が他人の行動から影響を受けるとき、似たような集団であってもやがて大きく異る行動をとりうる。

<4 特別な人々>

*では、特別な人々こそが影響を与えるのか、すなわち、インフルエンサー、偶然の重要人物についての考察。

6次の隔たりをめぐって
ミルグラムの発見のようなハブはなんら見いだせなかった。

特別な人がいるはずだ、さもなければ、うまくつながるものか! *しかしそうではないのだ。

インフルエンサー乗数効果はたいてい3倍程度にすぎなかった(*ワッツがそれを見出した)。理由は簡単で、影響がなんらかの感染過程によって広がるとき、結果はそれを引き起こした個人の特性よりも、ネットワーク全体の構造にずっと大きく左右されるからだ。

森林火災が激しく広がるのは、最初の炎が特別だったからではない。そうなるような風や温度や低い湿度や可燃物の組み合わせ(*ネットワーク)があったからだ。

個人がネットワーク全体でどういう位置にいるかを見極められないかぎり、その人にどれほどの影響力があるかはたいしてわからない――個人についてどういう測定結果が得られようとも。

リツイートの連鎖の全体をたどった調査の結果。連鎖の試みの大多数は、全体のおよそ98%はまったく広がらなかった。この結果は重要だ。

なにかが一気に広がった理由を理解したければ、ごくわずかの成功例だけを考察するのはまちがっている。しかし、残念ながら、ほとんどの場合は成功例しか研究できない。(ただし、ツイッターではどれほどの小さな鎖でも一つ残らずたどることができる)

(*ツイッター連鎖研究の続き)わかったことをひとことで言えば、個人レベルの予測はノイズがきわめて多かった。成功する特質を示したひとりの陰に、特質がはっきりせず成功しなかったユーザーが何人もいた。

キム・カーダシアンは金を受け取って、いろいろな製品をツイートしていた、ということが報じられた。これをめぐって、ワッツらが仮想的な統計モデルで検証したところ、カーダインに当たる人物はたしかに平均より影響力があったが、非常に高くつき買得ではなかった。

情報を広めるうえで最も費用効果が高かったのは、影響力が平均かそれより小さい、われわれが一般のインフルエンサーと呼んだ個人の場合が多かったのである。

*ワッツの主張のポイント
「特別な人々」説は、「ネットワークの構造はどう影響するのか」という問題を、「特別な人々を動かすのは何か」というずっと単純な問題にすり替えてしまう。

<5 気まぐれな教師としての歴史> *ここが最も面白かった

歴史は一度しか起こらない *この事実を踏まえることが決定的に重要だ。

いろいろなラボ実験で、未来の事柄を予測するよう指示したうえでその事柄が起こったあとにふたたび面談したところ、以前の予測を思い返した被験者は、きまってそれを立てたときと比べ、あたった予測には自信があったと語り、はずれた予測には自信がなかったと語る。=遅い決定論=あと知恵バイアス。

サンプリングバイアス

遅い決定論が意味することは、起こらなかった事柄に対してわれわれがしかるべき注意を払わないことだ。

さらに、われわれは起こった出来事の大部分にも注意を払わない。(*なんということか!)電車に乗り遅れたときは印象に残るが、間に合わなかったときは必ずしも印象に残らない。空港で思いがけず知人に出会ったときは印象に残るが、出会わなかったときは必ずしも印象に残らない。

ある飛行機事故の要因とおもわれるものをめぐって、5つの要因が挙げられているが、いずれも
「必要条件ではあるが十分条件ではない」。要因がなければ事故が起こる確率はきわめて低くなるが、要因があるからといって事故が起こるとはかぎらないし、それほど起こりやすくなるとさえかぎらない。

*次が大事
しかしながら、ひとたび事故が起こると、世界に対するわれわれの見方は変わってしまう。
ある要因がある場合に、「事故になった結果」と「事故にならなかった結果」がありえるのに
「事故にならない」はすべて消えてしまう。事故を予測するのに役に立たないように見えた要因が大いに役立っているように見えてしまう。

他の例。学校で銃を乱射した物のほとんどはティーンエイジャーの少年であり、両親との関係が疎遠か険悪で、暴力表現の多いテレビ番組やゲームになじみ、同級生たちから疎んじられ、復讐の空想にふけっている。だがこうした特質は数千人のティーネイジャーの少年にそのままあてはまることであり、そのほぼ全員はだれも傷つけたりしない。

想像上の原

AのあとにBが起こったからといってAがBの原因だとはかぎらない。これはわかりきったことなのに、社会現象に関しては、なぜか物事が連続して起こっているだけで因果関係を推論する誘惑にかられる。=前後即因果の誤謬

グラッドウェル『急に売れ始めるにはワケがある』
*ワッツは同意しないようだ。

前後即因果の誤謬が、偶然の重要人物をいかに生み出しやすいか。SARSの例。ある患者が50人に感染されたなどが重視されたが、実際に詳しく調べると、問題の真の原因は患者を肺炎と誤診して入院させたことだとわかる。つまり、この感染で重要なのは患者自身ではなく、むしろ患者が細かい点でどう扱われたかである。また、アモイガーデンで感染が広がったのは排水管の漏れが原因だった。だから、上記の病院の上記の患者の特徴をいくら研究してもアモイガーデンではほぼ役に立たなかったはず。

進行中の歴史は語りえない *この節が驚くべき気づきをもたらしてくれた

何が起こっていたかをそれが起こっている時点で理解するのは現実的に難しい、というだけでなく、原理的に不可能。*まとめればこういうことになる。

なにかが起こっているときに。仮にすべてを見通す存在がいたとしても、《何が起こっているかを歴史家が述べるように述べることはできない。なぜなら、過去について述べるとき、歴史家はダント(アーサー・ダント)が物語文と呼ぶものに必ず頼るからだ》

「一年ほど前のある日の午後、庭でボブは薔薇を植えていた」これは通常文。「一年ほど前のある日の午後、庭でボブは賞をとることになる薔薇を植えていた」これが物語文。(*非常に面白い指摘)

そのときの当事者にとって意味をもつのは 通常文だけ。現在において、未来の出来事のを予測するように語ることはできても、未来の出来事をあらかじめ知っているように語ることは、
原理的にできない。

百年戦争という語も、戦争が終わってずいぶん後に作られた。

《進行中の歴史は語りえないのであって、その理由は当事者たちがあまりに忙しかったりあまりに混乱していたりして歴史を解き明かせないからだけでなく、起こっていることは結果が明らかになるまでは意味づけができないからでもある》 *核心部分。

*しかも、この直後に、実にもっともだが実に面白い問いを立てる。《では、それが明らかになるのはいつなのだろうか》

最後の最後までわからない *この節のタイトルが答えということになる

ここで例にあげるのが、なんと『明日に向って撃て!

3人はボリビアに向かう。《もちろんわれわれは、やがてこの魅力的な銀行強盗たちの運が上向いてくるのを知っている。事実、ことばの壁で愉快な失敗を何度かしたあとで、そのとおりになる。だがわれわれは、いずれそれが涙の結末を迎え、ブッチとサンダンスが拳銃を抜いて隠れ場所から銃火のなかへ飛び出していき、永遠のセピア入りの画像のなかで凍りつくのも知っている。(改行)では、ボリビアへ行くことにしたのは正しい決断だったのだろうか、それとも誤った決断だったのだろうか》
(*悪い決断だったとわれわれは言いたがるはずだが)それは最終的に悪い結末になったのを知っているからにすぎず、そのせいで、もともと悪い結末になるはずだったとわれわれは思い込んでしまう。

*では 《このさまざまな歴史のどの時点で比較すればいいのだろうか》

《要するに、ふたりに未来を見通せる強みがあるとしても(すでに知ってのとおり、これは不可能なのだが)、未来のどの時点で評価するかによって、みずからの選択についての結論は大きく異なってくると考えられる。どの時点が適当なのだろうか。(改行)映画の物語というせまい枠のなかでなら、すべてを評価するのに適当なのは、明らかに結末の時点だろう。だが現実生活では、状況はずっと曖昧だ。結末がいつなのかを物語の登場人物が知らないのとちょうど同じように、われわれもおのれに人生という映画がいつラストシーンを迎えるのかは知り得ない》
《言い換えれば、人生には明確な「結果」があり、そのときになれば行動の意味を最終評価できるという考え方そのものが、都合のいい作り事に等しい。現実には、われわれが結果と見なす出来事もけっして真の終点ではない。むしろそれは押しつけられたまがい物の里程標であって、映画の結末が実際にはこれからもつづく物語にまがい物の終止符を打つことであるのと変わらない。そしてある過程のどこに「終わり」を押しつけるかによって、結果から導かれる教訓は大きく異なってくる》 *いやまったくそのとおり。映画論が人生論になりしかもものごとの原理的な認識論に通じていく展開。

こうした問題はビジネス界でしょっちゅう発生している。株価のすべての上昇と下降を説明する記事がビジネス誌に載る。

いちばんよくできた物語を語った者が勝つ

《要するに、歴史の説明は因果関係の説明でもなければ、ありのままの記述でもない。少なくともわれわれが想像する意味ではちがう。むしろ物語である。歴史家のジョン・ルイス・ギャディスが指摘するとおり、それは史実とそのほかの観察できる証拠の制約を受けた物語だ》

よくできた物語の魅力は非常に強いので、説明を科学的つまりどれくらいデータに一致するかに基づいて評価しようとするときも、われわれは物語としての特質から判断してしまう。

単純な説明が好まれる理由。それは単純な説明のほうが多くを説明するからではなく、たんに単純だからだ。

ある病気の症状についての架空の説明のどちらが正しいかを選ぶように言われた被験者の大多数は、ふたつの病気にかかわる説明よりも、ひとつの病気にかかわる説明のほうを選んだ。
ふたつの病気にかかわる説明のほうが正しい可能性は2倍だったのに。

(*同様に)リンダは、フェミニストの窓口係である可能性より、ただの銀行の窓口係である可能性のほうが高いのに!(*人はそう思わない) 

科学と物語の違いは、科学は実験できること。では歴史も実験すればよいのか?

《だが歴史が一度しか起こりえないので、実験が事実上おこなえず、真の因果関係を推論するのに必要なまさにその証拠が排除されてしまう》《したがって歴史に科学的説明の水準を満たすよう求めるのは、非現実的であるだけでなく、根本からとりちがえている》
*これは原理なのだが、それなのに犯してしまう次の間違いのほうが重大と思われる。
《しかしながら、いったん組み立てられた過去の説明は科学が組み立てる理論と非常によく似ているので、最も慎重な歴史家でさえも、同じだけの適応力があるかのように扱う誘惑に駆られる》
*なるほど!

*ここからさらに言えること
われわれは、過去について学ぼうとするとき、同時にわれわれは、必ず過去から学ぼうとする。つまり、すでに起こったことを理解しようとしているだけだと言いながら、それを教訓にしようとしてしまう。
《物語を作ることから理論を組み立てることへの切り替えは、非常にたやすく直観的にできるので、われわれはほとんどの場合、切り替えていることを自覚さえしない。だがこの切り替えは、根本からちがうもので、目的も異なれば証拠の基準も異なることを見落としている。だから、物語の出来に基づいて選ばれた説明が、未来の傾向や趨勢を予測する役には立たなくても、驚くにはあたらない》
*ダメ押しの文言が繰り返されて、幕。

*ではわれわれは予測はまったくできないのかというと、そうでもないということをおいおい示していくのがこの一冊。

次章では《過去を説明する力に限界があると理解することは、未来を予測する力とは何なのかという問いに光をあてることになる》《つぎはこの予測について考えてみることにしよう》*素晴らしい展開。

<6 予測という夢>

新聞記事は予測はするが、予測が正しかったかどうかの結果は報じない。

政治的な専門家の予測が当たったかどうかを20年後に実証した研究では、ランダムな推測より専門家のほうがわずかによかったものの、最低限の手を入れた統計モデルにさえ及ばなかった。さらに驚くべきは、専門内より専門外のほうが成績がわずかによかった。

別の研究では、1970年代に立てられた数百の予測を調べたところ、およそ80%が間違っていた

とはいえ、われわれでも非常にうまく予測できることはある。サンタフェで「あしたは晴れるだろう」。アメリカとカナダは「今後10年は戦争しないだろう」。要は、自信をもって立てられる予測とそうでない予測を区別するのにわれわれが長けていないことだ。*こうした意表をつく事実をさらりと的確に示すのが、この本の真骨頂。

ラプラスの魔
ニュートン以来、実に驚くべき自然現象の数々を解明できた。そして、さらに何ができるのかという期待が生まれた。しかしラプラスは「単純なシステム」と「複雑なシステム」の重大なちがいを曖昧にした。*ラプラスの魔については『知の果てへの旅』の説明がわかりやすかった。

複雑なシステムはまったく別の代物。多数の独立した要素が非直線的な形で作用しあうときに複雑性はうまれる。カオス理論やバタフライ効果ということ。だから、経済の軌道のモデルを作るのはロケットの軌道のモデルを作るのとは違う。*たしかにわれわれはふだんこれを忘れているかもしれない。

しかしながら、それゆえに、複雑なシステムは、モデルを作るときは単純なモデルになる。複雑なモデルにしたところで、どのみち大きく誤る可能性が残るから。

社会システムを社会たらしめているのも、相互作用。その過程で、途方も無いほどの複雑性が生じる。

未来と過去は別物である

単純なシステムでは、何が起こるかを予測できる。複雑なシステムでは、何かが起こる確率を予測することくらいしかできない。

では、予測ができないことは、何が問題なのか。天気予報を思い浮かべるとよい。降水確率60%とは? 一度きりの出来事に確率を当てはめる意味とは? これについては数学者でも頭をかかえている。

株価の今後を予測するグラフ。(*ここからわれわれが錯覚していることは)未来の線はまだ明らかになっていなくても、なにか宇宙的な意味ですでに決まっているのではないかと
思い込む誘惑にかられる。しかし、それが未来であるかぎり、まさしく確率の範囲としてしか存在していない。結果を予測することと結果の確率を予測することは、根本的に異なることである。

そもそも、どの結果について予測を立てるべきかすら、われわれは知り得ない。*これも重大な事実の指摘だろう。

飛行機をハイジャックしたテロリストがビルに激突させるつもりだと予測していたら。グーグルという小さな会社が、いずれインターネットの巨人になると予測できていたら。*しかしそんな未来は思いもよらなかったはず。

ケネディが1963年のダラスで注意すべきなのは、食中毒ではなく狙撃手だと、だれがわかっただろうか。

これは先述の歴史論と共通している。何が関係しているかはあとにならないとわからない。*原理

最も立てたい予測を立てるためには、未来に起こるかもしれないすべての出来事のなかでどれが関係するのかをまず特定し、それに今から注意を払わなければならない。そんなことができるはずであるかのように思い込む。*ここが問題のポイントか。

ある人はオスロ合意の予測に成功したと主張した。しかしオスロ合意は蜃気楼のごとく消えた。つまり、オスロ合意を予測することは、最も重要な予測ではなかったということ。

予測の対象が正しいことは、予測の結果が正しいことに劣らず重要である。*いやまったくそのとおりだ。

イラク戦争も、サダムを倒せるかどうかを予測するより、サダムが倒れたあとの大混乱を予測できればよかった。

しかし、未来についても、より大きな予測は、最も困難。それがブラック・スワン

ここには、地震や雪崩や森林火災の規模は、正規分布ではないことが関係する(べき乗則)。大部分の自然現象はたいしたことがないが、ごく一部がきわめて大規模になりうる。

もう1つ。歴史上の大きな事件は、大きなハリケーンというのと同じ意味で大きいのではない。歴史的な事件は、社会情勢に広く変化を引き起こすことによって、重要性を帯びる。

たとえば、フランス革命とは何か? 7月14日のバスチーユ襲撃だけを指さない。

テクノロジー上のブラック・スワンにもそれは当てはまる。インターネットがブラック・スワンだったとして、それはどこからどこまでの出来事を指すのか?

また、ハリケーン・カトリーヌがブラック・スワンになったのは、単に嵐の規模が大きかっただけではない。

*というわけで、また似たような結論になるが
ブラック・スワンは、過去を振り返ったときしか特定できない。過去を振り返らないと、歴史のさまざまな要素を総合して整理できないから。

けっきょく、ブラック・スワンの予測と言われるものは、予測ではなく予言にすぎない。予測であるためには、その出来事がどのような意味をもつかまで予見できなければならない。

過去に目を向けるとき、われわれは起こったことしか見ない。つまり、起こったかもしれないこが起こらなかったことには目が行き届かない。しかもそのために、単に出来事が連続しただけなのに、因果関係があるかのように誤解する。

これと同じで、われわれは未来が出来事の連なる一本の糸をなしていて、まだそれが明らかになっていないだけであるかのように、つい想像しがちである。現実にはそのような糸など存在しない(*赤い糸が実在しないように)。むしろ未来は可能性の糸の束のようなものでしかない。いろいろな糸の確率を見積もるくらいしかできない。

過去はひとつしかないから、未来もひとつしかないはずだと思い込む。そしてまた、過去の事件の重要性を知っているように、未来の事件の重要性も予測できるかのように、思い込む。だが、過去に対するこのような見方は、物語を作ろうとする集団の努力の産物でしかない。

常識から反常識へ

常識に基づく推論のせいで、実際は何かをただ述べているだけなのに、原因を理解できていると思ったり、現実には立てられない予測を立てられると信じたりしても、あまり重要ではない。未来が訪れるころには、その大部分を忘れている。予測の大半が間違っていたり無関係だったりする可能性に、わずらわされない。このようにして、われわれは、ある日から別の日へ、ある観察から別の観察へと飛び越えることができ、混沌とした現実を、安心できる作り事の説明へと、ひっきりなしに置き換える。

もっと適切な反常識の方法はないのか? 次章へ。

<第二部 反常識>

<7 よく練られた計画>

前章のポイント
1 常識はたったひとつの未来が起こると教えるので、それを予測したくなるが、社会生活や経済生活の大部分は複雑なシステムなので、ある出来事の確率を予測するくらいしかできない。
2 常識は、重要な結果に注目するよう求めるが、現実には、どの事件が未来に重要になるかを予想するのは原理的にも不可能である。

これは厳しいメッセージだ。しかし、どんな予測もまったく立てられないわけではない。ポーカーで次のカードが何かは予測できないが、確率を知っていればより吟味した賭けができる。

*では 何が予測できるのか

複雑な社会システムで起こる出来事には、なんらかの安定した過去のパターンに一致するものと、そうでないものの二種類がある。

たとえば、季節性インフルエンザの流行状況は年によってあまり変わらない。クレジット会社は、社会経済や人口統計学や行動に関する変数に注意を払うことによって、全体の貸し倒れ率を予測するのに、驚くほど長けている。インターネットの会社は、ユーザーのウェブ閲覧データから、ユーザーの行動や反応を予測する。

市場、群衆、モデル

アメリカ大統領選の前日、投資家はアイオワ電子市場で1契約を0.92ドルで買えた。オバマが勝てば1ドルもらえる。これはつまり、この電子市場がオバマ勝利の確率が92%と予測したことを示す。

群衆の知恵。ジェームズ・スロウィッキーによる用語。すなわち、予測市場はある意味で賢い。

しかし実際は、予測市場はその理論から想像されるより複雑である。マケイン勝利の予測が一時大きく上昇したことなどが一例。そして現実的には、予測市場の成績はほかの(予測市場ではない)方法より少しよい程度でしかない。つまり、数千の市場参加者の集積された知恵が、過去の平均に基づく簡単な統計モデルよりも、わずかばかりすぐれているにすぎない。驚きに値する。

ソニーのベータマックス、MD、の失敗。しかしそれはソニーの選択がたまたま誤っていただけであり、アップルの選択がたまたま正しかっただけ。

*じゃあどうすればいいのか? レイナーは「戦略的不確実性」という。業界の未来にかかわる不確実性を、計画者はなんらかの形で計画の過程そのものに組み入れるべきだ、と。

しかしこの方法は、結局予測を伴うのであり、ゆえに、重要性が明らかになってからでないと何を懸念すべきかは知り得ない。

*それではどうするか 次章へ。
計画という思想全体を考え直し、多様な未来の予測にさほど重きをおかず、現在への対応にもっと重きをおくこと。すなわち、予測から対応へ。

<8 万物の尺度>

ZARAは次のシーズンに客が買うものを予測などしない。そのかわり、人が集まる場所に調査員を送りこみ、人々がいま来ているものを観察させ、そこから何が受けそうかについての案を大量に出す。そして店にいろいろ出す。そして、売れないアイテムからは手を引き、売れるアイテムの製造を拡大する。いわば「測定・対応」戦略。「予測」戦略ではない。

要するに、計画者は未来に何が役立つかを正しく予測しようとするのではなく、現在役立っているものについて知る能力を向上させなくてはならない。

同じように、グーグル、ヤフー、マイクロソフトなどはパケットテストを行っている。マレット戦略という(襟足だけを長く伸ばした髪型からの命名)。多くのユーザーのコンテンツは泥に近いので、後ろのページでほしいままにさせておく。しかしフロントのページでは、広告とともに厳格な編集管理をする。伝染性メディアの発射台として知られるバズフィードも。

カニカルターク(クラウドソーシング)。10ドル程度で意見調査ができる。あわよくば数時間で1,000もの意見が集まる。

現在を予測する

ウェブ全体もクラウドソーシングの一形態。各地に広がるインターネットユーザーを通してみた世界のリアルタイムの像を作れるかもしれない。

たとえばグーグルやヤフーは 、インフルエンザに関連した語句の検索から、インフルエンザの診察件数を推定する。

世界の状態を測定するわれわれの能力は増したのだから、計画に対する従来の考え方も改めるべきだ。「予測とコントロール」から「測定と対応」へ。

ただしここにはわれわれの心理も関係する。未来を予測する自分たちの能力がはあてにはならないと認めてはじめて、われわれは未来を見出す方法を受け入れられる。

測定だけで終わらせるな。実験せよ。

相関関係と因果関係の混同について。これを区別する簡単な解決法はランダム比較試験。医学の世界ではこのとおりだが、まったく同じ論法が広告にも当てはまる。実験を行わなければ、因果関係を確認するのは不可能に近い。広告の真の利益を測定するのも不可能に近い。

現場実験

ハラーズでクビになるのは2つ方法がある。ひとつは会社の金を盗むこと。
もう1つは、ビジネスの実験に適切な対照群を組み入れないこと。

現場実験は、経済と政治の世界でも、注目されるようになった。公衆衛生、教育、貯蓄、信用、報酬制度の効果、などなど。

現場の知恵の重要性

19世紀末から20世紀はじめにかけて。科学や工学の問題と同じように、社会の諸問題も解決されうると楽観的に考えられていた。ハイモダニストの過ち。

現場の知識を支持するという主張はハイエクが早くに示した。中央のひとりの計画者には不可能なことを、市場はなんの監督も指示もなしに情報の総合を日々成し遂げている。市場の見えざる手。

とはいえ、市場のメカニズムは、現場の知識を利用する唯一の方法ではなく、最善の方法ともかぎらない。

もう1つの方法として、懸賞コンテスト。ネットフリックスは、たった100万ドルで、世界最高のコンピュータ科学者の力を借りて、おすすめ映画のアルゴリズムを改善できた。

「解決」するな――ブートストラップせよ

計画と常識

探求者であれ。計画者は、自分が解決策を押しつけられるほど十分な知識をもっていると
考えている。探究者は、あらかじめ答えを知っているのではないと認めている。解決策を見つけられるほど十分な知識をもっているのは内部の人間だけであり、ほとんどの解決策は現場に根ざしていなければならないと考えている。

これらはすべて「測定と対応」の派生型。

<9 公正と正義>

*まずジョセフ・グレイという警察官が飲酒運転で親子3人を死亡させた事件が紹介される。赤信号だった。著者はこう述べる。《わたしはもしジョセフ・グレイがほんのすこしあとに交差点を通っていたらどうなっていただろうかと思わずにはいられなかった》

*たしかに、グレイと親子の通過時間がぴったり一致したのは、ただの偶然だ!

ジョゼフ・グレイの行動の何が、本人を飛び抜けた悪人にしたのか。その悪の度合は、1分後にバーを出ようと、信号が青だろうと、親子が少し遅れて歩いてきたとしても、まったく変わらなかったはずだ。

終わりよければすべてよし とはならない *これが現実であり常識であり法律である

*とはいえ著者はこう述べてはいる
社会学の見地からすれば、たとえ無責任な人々が運よく罪を免れても、社会が違反者をときどき見せしめにしなければならず、その境界線として選ばれるのが被害の有無だとういうのは、完全に理にかなっている。

*しかし
結果を決めるにあたって偶然の果たした役割を見落とすべきではない。だがわれわれはこれを見落としがちだ。犯罪の判決であれ、ビジネス戦略の分析であれ、芸術作品の品定めであれ。そのときの評価は結果についての知識に必ず左右され、しばしば大きく左右される。結果がもっぱら偶然によって引き起こされたものであっても関係ない。*上記ケースを例にすると、この記述が身にしみる。

これはハロー効果と呼ばれるものに関係している。相手の見栄えがいいと頭がいいように見える。

ある実験。2つのチームが架空の会社の財務分析を行い分析結果に成績をつけられた。2つのチームは自分たちのチームがどれほどうまく機能したかを評価するよう言われた。2つのチームの分析結果に実は優劣はまったくなかったが、成績がよかった(と伝えられた)チームは、悪かった(と伝えられた)チームに比べ、きまって自分たちが団結力や意欲の面ですぐれていたと評価した。

つまり、ハロー効果を打ち消すのは難しい。ただし問題は、結果から過程を評価するのがまちがっているということではない。たった一度の結果から過程を評価するのはあてにならないということである。

したがって、たった一度しか計画を試せないのであれば、行動の評価と改善をその行動の最中に全力で行うことこそが、ハロー効果を避ける最善の方法になる。すなわち、クラウドソーシングや現場実験やブートストラップが助けとなる。

すぐれた計画が失敗して劣った計画が成功するときもあるのだと、つまりそれはただ偶然によって決まるものだということを、心に留めておく必要がある。だから、既知の結果だけでなく、それ自体のすぐれた点からも計画を評価する必要がある。

才能 対 運

「よこしまな」利益に懸けた銀行員を罵倒し、「正しい」利益をあげた銀行員はボーナスで報いるべきだ、という考え。その間違いについて。

伝統的なファンドマネージャー、ビル・ミラー。

そうしたなかで、スポーツの結果は、ほぼ理想的な状況で何度も繰り返されるので、実績を測定するためのデータがそろっている。たとえば打率など。野球選手は年に600回、生涯に数千回も打席に立つ。他の職業では、そうした統計をまとめるのは、容易ではない。それに対して、ファンドマネージャーは、40年のキャリアで、40回しか打席に立てない。これは十分なデータではない。

マタイ効果

ビジネスや政治、エンターテインメントの世界では、個人の実力を測定する共通の方法ははるかに少ない。何より重要なのは、連続した実績が実力の独立した証明にはたいていならないこと。*これもなるほど。

スポーツなら、過去に勝利を重ねたからといって、サーブの回数を増やせるとか、審判の判断を無効にするといった優位を与えられることはない(*ビジネスではあるということ)。成功は名声と評価につながり、それが成功の機会と資源になる。=累積的優位。*ロスジェネの人たちは無能だから就職できなかったかのように思われる。

われわれはこのような社会を好まないが、そのために、こうした成功は実力に裏付けられているに決まっていると思い込む。ベストセラーは何らかの形ですぐれているにちがいない。裕福な人はなんらかの形で賢いにちがいない。と。

*すなわち われわれの大部分にとって、偶然と累積的優位の組み合わせが意味するのは、わりあい平凡な人が成功するときも大きく失敗するときもありその中間になるときもある、ということだ。だがどの個人の物語も独自のものなので、自分の目にした結果はその個人の独自の特質がなんらかの形でもたらしたのだと、われわれはいつだって自分を納得させることができる。

何が言いたいのかというと、才能はそれそのものとして評価されるべきだということである。才能は才能であり成功は成功であって、後者は必ずしも前者を反映しない。

スティーブ・ジョブズやアップルの成功はどうか? 現在では天才の作品のようにみなされているが、それはひとえに成功したからである(*こう言い切るのが著者らしい)。 すなわちハロー効果。

ラケシュ・クラーナ『カリスマ幻想』。企業の実績は、CEOの行動よりも、個々のリーダーにはどうすることもできない業界全般や経済全体の好不調のような外部の要因によって、決まってくると論じている。成功についての説明に精神的指導者が持ち出されるのは、そういう断定を支持する証拠があるからではなく、この種の人物がいなければ複雑で大規模な組織体がどのように機能しているのかを直観的に理解できないからだ、と結論している。*なるほど。首相もそうだろうか? そうだろう。

それなのに、特にアメリカなどでは個人の偉業が盛んに褒め称えられる。この心理傾向に拍車をかけるのは、企業のリーダーが少数のなかから選ばれること。通常の市場はたくさんの買い手と売り手がいるのに。

個人と社会
*なんとロールズの話になり、サンデルまで出てくる

ノージックロールズを批判した。しかし、自然状態であればノージックは正しいかもしれないが、ロールズの主張はそのような世界にわれわれは生きていないということだ。われわれが生きているのは高度に発展した社会であり、そこではたまたまある特質を備えていたり適切な機会を得たりした個人が並なずれて大きな報酬を手にしうる。

アメリカでは世界一流の体操選手と世界一流のバスケット選手では、本人の実績にかかわりなく名声や富が大きく変わってくる可能性がある。同じく、遺伝的資質に変わりがなくても、裕福で高学歴の家に生まれるかどうかで、成功する見込みは変わる。

これらの主張は、個人の報酬をめぐる論争は、個人レベルで行うべきではないという直観に反した結論をもたらす。

そして著者はこう述べる。リバタリアンは自然状態で何が公正で何が公正でないかを論じるが、自然状態ではだれも1000万ドルのボーナスを受け取ったりしないのだから、これは完全に的を外している。現実にはあらゆる富の分配は社会が行った一連の選択を反映している。*万国のサラリーマンよ覚醒せよ!

*さらにはこうも。富の分配を買えることそのものが原理上まちがっているという理由のみに基づいて提案に反対するのは、妥当ではない。

判断の私有化と損失の公有化

リーマン・ショック後に投資会社などを公金で救ったことなどをめぐって。*こんなの不公平じゃないかと著者は言っている。

互いの重荷を追う

サンデルの見方によれば、架空の自然状態からの類推のみによって何が公正かを推論するのが理にかなっていないのと同じように、個人の自由という観点からのみ公正や正義について推論するのも理にかなっていない。どちらも、われわれが現実に暮らす世界を正しく表現していない。*なるほど サンデルはそう言っていたのか!

そこからのサンデルの考えの行方。自分の都合しだいで先祖と自分を結びつけたり切り離したりすることはできない。先祖なども含む大きな共同体の一員であるのなら、便益だけでなく費用も分かち合わなければならないし、一員でないのなら、どちらも得られない。アメリカの奴隷制の歴史を恥ずかしく思わずに、アメリカ人として受け継いでいる伝統に誇りを持つべきではない、と。

*こうしたことを踏まえてサンデルは、道徳に言及するのだ。「対立する主張を道徳面から評価せずに何が公正かを決めることはできない」と。

サンデルの主張でとりわけ興味深いのは、個人の行動の意味は関係の重なりあったネットワークのなかでのみ正しく理解できると、社会学者のように考えていることである。

公正の判断基準となる価値観は所与のものではなく、社会の産物にほかならないというサンデルの主張は、社会の現実は社会によって構築されたものであるという、社会学者が1960年代にはじめて唱えた思想を映し出している。

では、サンデルそして社会学者のこうした問いにどう答えればよいのか。直観に頼っても限界がある。

実績の適切な測定基準を見つけたり、企業や市場や社会などの複雑な社会システムの仕組みを適切に理解したりするには? 次章へ。

<10 人間の正しい研究課題>

社会学は物理学のような法則がないので科学として扱われる資格はまったくないのか、と改めて問う。

そうした社会学の研究の歴史。コント。スペンサー。デュルケム。構造機能主義。パーソンズ

マートン社会学はまだケプラーすら見出していない。ニュートンプランクは言うまでもなく」

マートンの主張。社会学は人間の行動の大理論や普遍法則ではなく中範囲の理論を発展させることに集中すべきだ。すなわち、孤立した現象以上のものを説明できるほどに適用範囲が広いが、具体的で有用なことが言えるほどに限定的な理論。

しかし社会学は、物理学羨望という嫉妬の怪物から解放されてはいない。

人間の行動の純粋な複雑性を考えれば、社会学に対するこのアプローチ(大理論の探究)は受け入れがたく思える。

社会学者もまた、同じ人間として、同じ誤りを犯している。自分がやろうとしていることも難しさをあまりにも甘くみる。そして、合理性の事後主張、代表的個人、因果関係と相関関係の混同もありえる。

測定不能なものを測定する

しかし、最近では長きにわたるこの制約が解かれるかもしれない。インターネットにより数十億人の社会的ネットワークと情報の流れを暗黙のうちに追跡されている。これらは科学の巨大な可能性を示す。歴史上はじめて大きな集団や社会全体のリアルタイムの行動をかなり正確に観察できる。

類は友を呼ぶ

なぜ類は友を呼ぶのかの、本当の理由は何か。これらもeメールなどから、わかってくるかもしれない。そしてワッツらが同類志向の起源を研究したところ、知人同士はたしかに他人同士より似ているし親しくなりやすいが、実は、近くにいる個人同士は近くにいない個人同士より似ていて、それを計算すると、似た個人を結びつけるバイアスのほとんどは消えた。
結論をいうと、われわれのコミュニティーの個人は、似た他人に対する選好をいくらかは示したが、わりあい弱い選好が時間とともに選択の回を重ねるうちに増幅され、ネットワークを観察したときに非常に強い選好があるように見えていた。

同類志向に関して もう1つ。選択の結果であれ環境の結果であれ、アメリカ人が考え方の同じ隣人や知人とますます付き合うようになっているという懸念が示されているが、本当にそうか? 両極化は、現実なのか、認識の問題なのか? フェイスブックでこれを調べることが可能。ワッツらの研究から得られた知見は以下。友人の意見が定かでないときは、われわれが思っているより多かった。そして、そうしたときには、ひとつには単純な固定観念を使ったり(たとえば「自分の友人の大半はリベラル左派だから、きっとリベラル左派の典型意見を支持するはずだ」と考えたり)、またひとつには自分の意見の友人に「投影」したりすることで、友人の意見を推測している。とはいえ、この種の探究には、限界はあることも、著者は述べている。

扱いにくい問題

こうした新しい力が社会科学を導く先はわからない。おそらく普遍法則ではないだろう。理由は簡単で、実社会はそのような法則におそらく支配されていないからだ。

重力、質量、加速度のような物理学の力とは、異なっている。

生物学も、普遍法則はないが、生物学者は前に進んでいる。

社会科学で一般法則を探すのに頭を使わなければ、現実の問題を解決するのに頭を使えるし、もっと前に進める。

とはいえ、どういう問題なら解決が望めるのだろうか。

思慮深く、そして、少し内省すれば、社会科学の助けがなくても、わかりそうだ。しかし、自明でないのは、そうした自明の事柄がどう組み合わさっているかである。

著者の考え― 社会学は何ができるのか。マートンのことばは正しい。社会科学はいまだに自分たちのケプラーを見出していない。しかし、アレグザンダー・ポープが、人間の適切な研究課題は天上ではなくわれわれのなかにある、と説いてから300年後、われわれはようやく自分たちの望遠鏡を手に入れたのである。(*インターネットなどのビッグデータとそれを解析する手法をさしていると思われる)

さあ、革命をはじめるとしよう… 

=終り=