(ここからの続き↓)
宗教に関する考察。ここはさして新味もなかろうと思っていたら、完全に裏切られた。
宗教の本質…というかむしろその単純かつ基本の事実が淡々と指摘されていくのが、決定的に面白い。「そういえばそうだ!」と今さら気づかされること、多々。通低音はやはり「虚構」
実は、上巻「第6章 神話による社会の拡大」に面白さの前触れが既にあった。なんらかの神話や宗教、主義や思想を根拠に大勢の人々を統率してきた支配層たちは、自らその神をマジに信じていたのだと著者は述べる。「は? 」とあっけにとられつつ「そうなのか…いやそりゃそうだ、そりゃすごい!」
《キリスト教は、司教や聖職者の大半がキリストの存在を信じられなかったら、二〇〇〇年も続かなかっただろう。アメリカの民主主義は、大統領と連邦議会議員の大半が人権の存在を信じられなかったら、二五〇年も持続しなかっただろう。近代の経済体制は、投資家と銀行家の大半が資本主義の存在を信じられなかったら、一日ももたなかっただろう》
生け贄をささげれば大地は願いを聞いてくれるとか、イエスは本当に復活したのだとか、資本家の家に火を放てば世界は良くなるとか、異教徒の首を斬れば世界は良くなるとか、異教徒の入国を拒めば世界は良くなるとか、みんな多少はマジに信じていた(る)のだ。それを凄いと言わずして何と言おう。
さてしかし、奇妙な神話、奇妙な主義について「もちろん信じてないけどつきあいでちょっとね」という人は大勢いた(る)だろうが、「大きな声じゃ言えないけど本気でそう思ってる」という人は、どの程度いた(る)のだろう。ともあれ、宗教や思想の底力はそうした奇妙な信仰・信念こそが裏付ける。
そして下巻の最初「第12章 宗教という超人間的秩序」で、目からウロコがマジに落ちた。
この章で著者は「人間至上主義」を相対化させる。人間至上主義とは、私の理解では、蚊や鼠や牛はときに殺していけど人間だけは絶対ダメ、といったような信念のこと。もちろん私も100%疑わない。
本来、そうした人間至上主義を相対化する主張なんて、ことごとく形式的で建前的で白けるものだ(どうせ相対化できないに決まってると、少なくとも私は信じているからだろうが)。ところがここを読んでいて、恐ろしいことに、それがマジに相対化されるのを、初めて実感してしまったのだ。脂汗…
そのキモを示すなら―― まず著者は人間至上主義を《人間性を崇拝する宗教》とみる。《ホモ・サピエンスは、他のあらゆる生き物や現象の性質とは根本的に異なる、独特で神聖な性質を持っている。至高の善は人間性の善だ》と。だがこれだけなら陳腐な理屈だ。だいいち正しい。皮肉になってない。
ところが続けて著者は、人間至上主義はべつに1つではない、異なる2つのバージョンがあった、と言う。しかもごく近い過去に。そして1つを「進化論的な人間至上主義」、もう1つを「社会主義的な人間至上主義」と名付ける。
前者は、人間性を変わりやすいものとみて「人間が退化しないよう人類を保護し超人への進化を促すこと」を戒律とした。後者は、人間性を種全体に宿る集合的なものとみて「この種の平等を守ること」を戒律とした。どちらもこのあいだの20世紀、欧州でのできごとだ。
ここに、もう1つの宗教、すなわち私が信じおそらくシンゾーもオバマもトランプも信じている「自由主義的な人間性」という宗教を並べてみる。この宗教では、人間性は個人的なもので各個人の中に宿っているとみて、ホモ・サピエンスの「各個人の内なる核と自由を守ること」を至高の戒律にしている。
このように、私が強く信じている人間性のバージョンを、つい最近の旧ドイツや旧ソ連で強く信じられていた人間性の別バージョンのすぐ隣に並べ、冷静に丁寧に眺めてみれば、唯一絶対に決まってるだろという私の信念が、まるきり揺るがないとも言えなくなってしまったわけだ。
これはちょうど、人類はホモ・サピエンスだけでなく、北京原人やジャワ原人というバージョンもあったし、ネアンデルタールというバージョンなんて3万年ほど前まで私たちと共存していた、といった事実を初めてしみじみ実感したときの、新鮮な驚きに似ている。
しかも、さらに興味深い構図が示唆される。私たちの「人間性至上主義」は、別バージョンが存在していたどころか、そもそも、もっと強力で、しかも実にありふれた起源を有しているのかもしれない。すなわち一神教だ。私はそう思った。
同書はこう書いている。
《有神論宗教は、神の崇拝に焦点を絞る。人間至上主義の宗教は、人類を、より正確にはホモ・サピエンスを崇拝する》《人間至上主義は、三つの競合する宗派に分かれ、「人間性」の厳密な定義をめぐって争っている。競合するキリスト教の宗派が神の厳密な定義をめぐって争ったのとちょうど同じだ》
…脂汗。
ここまでをズバリまとめれば、人には人権があるという信念は、人には魂があるという信念と、あまりにも似ているということ。「魂なんてない」とどれだけ説かれても受け入れない人の気持ちが、「人権なんてない」とどれだけ説かれても受け入れない私の気持ちを通じて、初めて理解できるということ。
しかしこの章の衝撃はこれで終りではない。私たちの良心の最後の砦とも言うべきこの「自由主義的人間至上主義」が、こと現在に至っては、生命科学の最新の成果が示す事実の前に、はたして持ち堪えられるだろうか、と問うのだ。
《人体内部の働きを研究する科学者たちは、そこに魂は発見できなかった。彼らはしだいに、人間の行動は自由意志ではなくホルモンや遺伝子、シナプスで決まると主張するようになっている》《生物学科と法学科や政治学科を隔てる壁を、私たちはあとどれほど維持することができるだろう?》
私は、私の価値観・人間観こそが あらゆる時代を超えて「最も妥当だ」と感じている。けれどもそれは、過去からも未来からも、大いに脅かされていることを、もっと認識したほうがいいようだ。
(→ここへ続く)