東京永久観光

【2019 輪廻転生】

時間変化をめぐって〜映画の原理へ

養老孟司さんがゲンロンに登場 - 東京永久観光

上にある<時間とともに変化するものを私たちは如何にして捉えることができるのか(できないのではないか)>という養老さんの指摘(趣旨)。これは映画というものを見つめ直すことでも気づくことになる。ある出来事の経過を映画はそのまま捉えていそうに思えて、実はまったくそうではない。

このことに、私はやはり蓮實重彦の本(監督 小津安二郎)を通じて深入りした。同書がとりわけ強調していたのは、<見つめ合う2人の視線を同時に示すことが映画は絶対できない>という原理的限界だった。

以下の中盤に記してある。
https://tokyocat.hatenadiary.jp/entry/20060909/p1

 

今少し読んでいる『24フレームの映画学』(北村匡平)は、映画の内容ではなく映画の形式というものがいったい何であるかをズバリ問う本で、まずテーマになるのは「映画の視線」。題材の1つがやはり「小津の切り返し」で、『麦秋』『小早川家の秋』が引用される。

http://www.koyoshobo.co.jp/book/b577047.html

 

さてさて、上記をめぐり蓮實はこう書いていた。

《瞳を鮮明なイメージとして画面に定着しながら、視線は絶対に撮ることができないという点に、映画がかかえこんだ最大の逆説がある。そして小津安二郎は、ひたすらその逆説のみにこだわり続けた作家である》(監督 小津安二郎

かつて大勢の読者がここを読み「は〜なるほど〜小津ってそうだったのか〜すごいな〜」と、やや首をひねりながらもうなづいたことだろう。

(しかし小津ってホントにそんなことを考えてあのような撮影や編集をしたんだろうか? 私は正直そこは今なお首をひねっている。小津って正直よくわからない)

 

小早川家の秋はわりと最近再鑑賞したので、ともあれついでに感想一言。

この映画はカラーが鮮やかで新珠三千代らの軽妙さがやはり面白いが、今回印象的だったのは、原節子司葉子が川沿いに並んでさっとしゃがむシーン。アクションつなぎ。まるで体操みたいで奇妙。しかも同じ構図が2回あったような…

そうだった、ラストシーンで同じ2人がまったく同じように再びしゃがむのだった。

以下参照:https://ameblo.jp/yoshi54time/entry-11996727293.html

また、しゃがむ前に脚を一歩踏み出すアクションも2人はきれいに揃う。それで「体操みたいだなあ」と思ったのだった。