ちくま文庫の『小津安二郎と「東京物語」』(貴田庄)という本を読んだ。『東京物語』がどのように作られたのかを小津の日記などをもとにコンパクトにまとめた一冊。脚本作成や撮影を進めていく様子があるていど実感できて非常に興味深い。小津や『東京物語』について疑問だったことのいくつかも解けた。
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戦後の小津は年1本のペースで映画を撮っている。これって多いの? 少ないの? と疑問と興味がわくのだが、現在の映画監督とは異なり、松竹の社員として監督の仕事をしているということがポイントで、どこかノルマ的な工業生産に近いものを思い浮かべても、そう間違いではないのだろう。
現在では、巨匠と呼ばれる作家性の強い監督なら、本数はもっと少ないだろう。その一方、現在では事業として博打のごとき映画製作とは異なり、小津の時代には、資金集めや宣伝に腐心する必要はないだろうから、安定した気持ちで作品のことだけを考えながら落ち着いた日々を送れたのだろうと思う。
監督だけでなくスタッフも社員だし、役者も多くは社員だったと思われる(半分推測)。多数の映画会社がそれぞれ自らのリソースでコンスタントに映画を製作し配給もした時代だろう。こうした保守性が良い結果(作品)を生んでいたと言えるのかもしれない。今なら各テレビ局のドラマ制作に近い。
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というわけで、『東京物語』は1953年の夏に撮影され11月に公開されるが、小津監督は、その年の2月には定宿にしていた茅ヶ崎の旅館で脚本執筆を開始している。といっても、2月中の日記によれば「無為一日すぎる」「仕事の話ハしない」「仕事の話 始めて少々する 少しく昼寝する」といった風。
さらに、三月二日「そろそろ仕事にかかる気になる」、十三日「そろそろ仕事をやらねバならない 実にさう思うのだが何もやらない」、十九日「割にこのところ朝ハ早く起きる ただし何もしない(略)かくして、またしても無為」 …仕事の緩慢・怠慢という点では私も少し自信を持ってよい。
そうこうしているうちに四月。プロデューサーも宿を訪ねてきて、八日になって「とにかく書き始める」とある。そして4月後半から集中して脚本が出来あがり、5月28日に脱稿している。
とはいえ、小津は脚本の草稿といえる克明なノートも残している。それを手元において野田高梧と一緒に脚本を清書したのだろうと、著者(貴田庄)は推測する。ノートの写真も掲載されている。これらからは、むしろ小津監督の完璧主義や仕事熱心さが感じられる。(優雅でのんきな宿の日々ではない)
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『東京物語』のロケハンは6月15日、撮影は7月13日からスタートする。ここにきて急に尻に火がついたような印象もある。
ロケハン初日は小津監督が生まれた門前仲町。2日目は銀座で、東京に住む紀子(原節子)が尾道から出てきた老夫婦(笠智衆と東山千栄子)を見物に連れて行く先として、5つのデパートの屋上を次々に回っている。実際の撮影は松屋。居場所のなくなった老夫婦がしゃがみこむ上野公園も見ている。
ロケハン初日は小津が生まれた門前仲町を回ったことが記録されている。しかし映画には出てこない。長男や長女の住んでいる場所を探したのかもしれないが、富岡八幡宮と深川不動に行っているので、この日は本格的なロケハンではなく、映画の完成を祈りに行ったのではないか、と著者は想像している
そもそも、長男夫婦(山村聡と三宅邦子)の家は、医者を開業しているものの あまり羽振りがよいわけではなく、老夫婦も東京駅に着いてから車でずいぶん長く揺られることになるので、門前仲町では合わない。実際には東武線の堀切駅の近くという設定になる。それとわかるカットが使われている。
その『東京物語』の堀切駅のことを、私は最近、マツコ・デラックスの「夜の巷を徘徊する」という番組を見ていて、ふいに自発的に思い出した。独特の侘びしさの残るその界隈がテレビに急に映ったのだ。なんとも不思議な体験だった。『東京物語』が実在の誰かであるような…自分の昔であるような…?
◎そのときの記録。
http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20160422…
ところで堀切駅の路線、今は「東武スカイツリーライン」と言うようだ。長い歳月の間にはいろんなことが起こる。
=重要な訂正= 『東京物語』に出てくる駅のホームが堀切駅だという前提で書いていたが、そうではないかもしれない。先に紹介したブログによれば、堀切駅という想定ではあるが、実際には旧「荒川駅」のホームで撮影している、という見解。
http://blog.goo.ne.jp/cocoro110/e/62aea4958f64613118a3e95851024611…
さらに、『東京物語』では、その「駅のホームからのカット」の1つ前は「駅の遠景のカット」なので、その「駅の遠景のカット」もやはり堀切駅という前提で見るのだが、「駅の遠景のカット」がどこかも私には確証がない。同書にも厳密な記述はない。ネットを探るといっそうわからなくなる。
話は戻って―― 小津監督の生まれが門前仲町で『東京物語』のロケハンも門前仲町からスタートしたというのは今回の本で始めて認識した。門前仲町は大江戸線が通って東京にいれば 電車でもわりと行きやすくなった。
そしていきなり個人的な話になるが―― 私もこれでテレビの仕事をしているのでロケハンというのは縁がないわけではなく、以前、隅田川わきの越中島の夜景を撮影するため、この門前仲町で降り、日が暮れる前から界隈をずっと歩いたことがある。今回の本を読んでいてそれを思い出した(ただそれだけ)。ちなみに地球外知性がテーマだった。
そして、なんというか、映画を作る仕事というのは、たとえば不動産を売る仕事とか、株を売る仕事とか、オレオレ詐欺をする仕事とかに比べれば、やっぱり私の仕事にいくらかは近いのだなあということを、おこがましくも晴れがましくも、思ったのであった。
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脚本執筆、ロケハンにつづいて撮影の記録を追っている。
『東京物語』は尾道、東京、熱海と移動するロードム―ビーと言えるので、家屋内のシーンが目立つ小津映画では珍しい部類かもしれず、ゆえに、考えてみればロケは大変だったろう。とはいえ、私が同書を読んで印象的だったのは、むしろ、かなりセットを使っているのだな、ということ。
これはなぜかというと、もし自分が映画を作るならと考えるときは、大学の映画サークルかなにかで自主製作するようなものを想像するからであり、やはり往年の映画会社が自前の撮影所を持ち何だってセットを作って撮影できる、といった事情をあまり想像しないからだろう。
というわけで、小津安二郎の撮影について。同書は、小津映画の最大の特徴というべき、カット割りの多さ、ローアングル、そして場面転換や時間経過のためにフェードイン・フェードアウトを使わず風景カットをはさむ、などを伝えているが、私がそれ以上に印象的だったのは、時間厳守の撮影現場。
《小津はよほどのことがないかぎり、日曜の撮影はしていません。また、セット撮影が長引き、夜まで撮影をすることはあまりなかったといいます。残業手当がつかないため、小津組の撮影が始まると、若いスタッフは懐ぐあいが寂しくなったと厚田は述べています》(p.134)*厚田はカメラマン
ブラック企業とその社員に聞かせたいのはともかく、ここにも小津の性格または映画作りへの信念が現れているのかなと私は思った。小津は撮影の時点ではイメージがすっかり出来上がっていて、あとは迷わずカメラに収めればよく、平常心で作業をいくらでも分割できたのではないか(推測)
「小津は撮影時点でイメージが固まっていた」という推測についてさらに―― 今回の読書がきっかけで、ヴィム・ヴェンダースが小津をしのんで作った『東京画』(1985年)をDVDでみたのだが、『東京物語』を含む小津映画後期25年間の撮影を担当した厚田雄春のインタビューが視聴できる。
全体が心に残る。また小津のローアングルはこの三脚で撮影したんですと実物を持ってきて語るところはやはり興味深い。しかし今回初めて知ったのは、ローアングルのカットに続いてその人物のアップを撮るときには、小津はそのカメラの位置を少しだけ高くした、という証言。
アップを撮るにはカメラを少し近づけることになるが、高さがそのままだとカメラの角度があおりぎみになるのを小津は嫌ったのだろうと、厚田は言っている。人物を完全に水平でとらえたいということ。映画監督はみな同じかもしれないけれど、どうしてもここには小津特有の完璧主義を感じる。
加えて、小津は撮影の際にすべて自らがファインダーを覗いてサイズを定めた、そしてあとは誰もカメラには触らせなかった、という。だから私はカメラマンではなくカメラ番でしたと厚田は言っている。同書でも『東京画』でもそれがわかる。(これも映画監督ならみな似たようなものかもしれないが)
もう一つ。小津はカメラのレンズは50ミリだけを使ったそうだ。一般的な写真撮影の基本はやや広角の35ミリで、50ミリは人の視野と同じとされるものの、実際に50ミリでカメラを覗くと、どうも狭く息苦しく感じる。
ではなぜ小津は35ミリでなく50ミリを好んだのか。厚田は『東京画』のなかで、35ミリだと人物の周囲に余計なものが映り込むので、それを嫌ったのだろう、という主旨のことを言っている。
これらをまとめて思うに、小津監督は、少なくとも撮影の現場の段階では、自身の求めるイメージというものが100パーセント定まっており、その思いが1ミリでもそれるのは許せなかったということだろう。
『東京画』では笠智衆のインタビューもあり、小津監督の撮影では同じセリフを時には20回くらいもやり直しさせられた、という主旨のことを語っているが、それも監督の完璧なイメージに合うか合わないかの問題だったとも考えられる。
映画は演劇などとは異なりライブを見るのではないが、その映画を撮影そのもののライブ記録として見るという面白さもあると思う。ヴェンダースのいくつかの映画にはそうした志向が多いに感じられる。しかし小津の映画作りにはまったくそうした志向はないのだろう。(ヴェンダースがむしろヘンなのか)
こうした小津のいわば「固定的で機械的な完璧主義」という観点でみれば、1つのシーンなのに、やたら細かくカットを割り、セリフの一言一言を(まるで棒読みのようなものも多い)独立して撮影し、編集でひたすらつなぐ、という手法も、理にかなっているのだろう。
役者の直感に任せて長回しすれば、監督の意図から外れる可能性が高まる(それを狙う映画もあろうが)。同じく、『小津安二郎と「東京物語」』は『東京物語』における移動ショットの少なさを指摘しているが、やはり、意図を超えて余計なものが入り込むのを避けるには、カメラは静止しているに限る。
今回こう考えてきて、そもそも小津監督にとって映画とはいかなる営為なのかという、昔からずっと疑問だったがわからないので抑えこんでいたものが、大きく頭をもたげてくる。『東京物語』も小津安二郎も映画の真髄であるかのように絶賛されるけれども…(少なくともヴェンダースはそうだ)
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今回の読書ではっきりしたこと、もう1つ。
小津安二郎のことは、個人的に、蓮實重彦の解説やヴェンダースやジャームッシュらの個性的な監督の賞賛によって知ったことから、そのように今は特別な位置にある小津の映画が、では当時はいかなる映画として製作され鑑賞されていたのだろう、という疑問がずっとあったのだ。それに現在の私からすれば、小津映画は娯楽作品としてのインパクトには欠けるようにも感じられるからだ。
はたして同書には興行についても記録がある。それによると、『東京物語』は松竹の主力作品として封切りされ、しかも期待どおりの集客力を見せている。また、撮影の記録を読んでも、原節子らが尾道に到着した日には大勢のファンが駅に押し寄せたことなどを伝えている。当時の日本において、小津安二郎も原節子も、べつに特異な位置ではなく単純に名監督と大スターとして中心にいたのだと思われる。
つまり『東京物語』は当時ふつうに大衆的な映画として製作され大衆的な映画として人気を博したのだろう。
作品の評価について。小津映画が現在では「高い芸術性」というイメージが強いのとは異なり、いわば凡庸という指摘もあったようだ。キネマ旬報(1953年11月下旬号)で登川直樹という人は、小津は紀子をあまりにも理想化したタイプに描きすぎているため、社会劇にもなりきらず性格劇としてもものたらない、と批判したそうだ。そのうえで次のように書いたという。
《しかしもともと小津安二郎はそこまで掘り下げる意図はなかったかもしれない。むしろそれよりも風俗画として丹精な様式を崩すことなく描き上げることを意図していたのであろう。その意図からすれば、これはまさに円熟の作に違いない》
私はこれを褒め言葉とばかりは受け取れない。
ただし、貴田庄は登川の批評を紹介したすぐあとに、そのとおり紀子は理想の女性であり、だから紀子に深刻な社会劇や性格劇は似合わない、しかもそれゆえ小津映画は時代を超え国を超えて高く評価されているのだ、という趣旨のことを書いている。
私は、貴田が示しているような小津安二郎に対して最もよくある賞賛について、どこか腑に落ちないものをずっと抱えていた。だから、今回は登川の批評を知って初めてうなずくところが大きかった。この点、まだまだ検討してみる余地があると思う。
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さてしかし。同書は、小津映画がのちに国際的に評価された経緯についても記している。そこで目を見張るのは、やはりヴィム・ヴェンダースの小津への傾倒ぶりだ。
そもそも日本人が80年代くらいにもなって古くさい小津映画をなぜ再発見したのか。それはひとえにヴィム・ヴェンダースのおかげだったのかもしれない。少なくとも私自身を振り返るとそのとおりだ。そのことに今回の読書は改めて気づかせた。
そんなこともあって、ヴェンダースの『東京画』をDVDで借りてきた視聴した。考えてみれば初めてだった(なんで今まで視聴していなかったのか)
ヴェンダースの小津へのオマージュは言葉としても示されている。同書も引用しているが、一部を以下に書き写す。
《20世紀になお“聖”が存在するなら
もし映画の聖地があるならば
日本の監督――
小津安二郎の作品こそがふさわしい》
《私は彼の映画に世界中のすべての家族を見る
私の父を 母を 弟を 私自身を見る
映画の本質 映画の意味そのものに
これほど近い映画は 後にも先にもないと思う》
先ほど小津映画に対する根本的な疑念を書いたけれども、しかし、今回の読書を機に、『東京画』を初めて鑑賞し、また当然ながら『東京物語』のDVDも鑑賞してみたわけだが、結論としては、上記のヴェンダースの言葉を信じたい気持ちが強い。『東京物語』もこれまで以上に感動的だった。
小津安二郎の映画は何が素晴らしいのか。本当のところ私にはまだわからないのだろう。しかし、その素晴らしさをめぐって、この先も迷い続け探し続ける甲斐は、間違いなくあるのだと、改めて確信するに至った次第。