https://twitter.com/selfcomestomine/status/1185590074039095296
山や河には心なんてないのにあるかのように思いこむ。それと似たことで、人間にも心なんてないのにあるかのように思いこむ、ということか!
実際にはきわめて多様で散漫でしかない感情や意思が1つに統合されて感じられるのは、天皇が「国や国民統合の象徴である」ように感じられることと、とても似ている。すなわち、心の象徴および心の統合の象徴として「私」というアイコンが作られている。
しかし翻って思う。
心(私)というものが持続的・安定的に存在していると感じるのは「錯覚ですよ」と言われても、「う〜ん」と首をかしげたくもなる。「国家なんて錯覚だろ」と言われても「それは知ってるけどさ」とぼやきたくもなる。「天皇は錯覚」と言われても同じなんだろうか?
「天皇制は宗教の1つ。そして宗教はみな錯覚。はい終わり」という見方もあろう。しかし、多くの宗教に比べて、天皇制はあまりにも網羅的だ。あまりにも均質的だ。あまりにも微温的だ。
天皇制が歴史の事実として良いものか悪いものかという探究とは別に、「天皇は良い日本の象徴だ」と思うのも、「天皇は悪い日本の象徴だ」と思うのも、どちらも自由だろう。ただ、どちらも頑固でもある。端から見ても自らとして見ても。
ところで、私は天皇制の観察者であっても天皇制の当事者でもある。余裕で観察だけできるのは、遠くの英国のブレグジットとかシリアの地獄とかだけ。
◎即位礼正殿の儀の直前 雨上がり虹かかる
「ほらやっぱり自然や地球にも心があるじゃない!」
過去の霊長類から進化・継続して現在のヒトがあるように、過去の社会から進化・継続して現在の社会があることを、ちょっと実感する。
これらすべての旧弊から本気で逃れたいとおもったら、ホリエモンみたいに生きるしかないね。