東京永久観光

【2019 輪廻転生】

★タクシー運転手 約束は海を超えて ★ガッジョ・ディーロ

  タクシー運転手 約束は海を越えて [DVD]
  ガッジョ・ディーロ [DVD]ガッジョ・ディーロ HDニューマスター版 [Blu-ray]


近ごろ足が遠のいているレンタルDVD、久しぶりに借りたのは韓国映画の『タクシー運転手』。もう1枚は『ガッジョ・ディーロ』というルーマニアのロマの集落をそのまま写したような劇映画。どちらも面白いのだが、それはどちらも旅先でのディスコミュニケーションを描いているからだと気づく。

ディスコミュニケーションといっても、たいてい文明と野蛮の非対称な間柄であり、では日本の私は旅先でどっちの側でディスコミュニケーションにさらされるかと考え、そりゃ文明の側だろうと言いそうになりつつ、いや待てよときには野蛮の側にも立つかもなと、思いがけないことに気づく。

それは、『タクシー運転手』のソン・ガンホが演じる運転手の視点を自然に自らの視点にしていることから、気がついたこと。ただし『ガッジョ・ディーロ』のロマの視点にはなれないことも、わかってくる。

なぜか。それは、物語の視点がタクシー運転手の視点だからであり、一方はロマの視点ではなくロマと遭遇するフランス人の視点だから、という単純な理由かもしれない。あるいは、映画や小説において、物語の視点もしくは語り手になることは、すなわち文明であり野蛮ではありえない、ということなのかも!


それにしても、光州事件が起こった1980年、日本の私は韓国のことをどれくらい知っていたかというと、韓国と台湾の区別ができないくらい何も知らなかった。そもそも日本に入る韓国の情報など皆無といってよく、当たり前だが日本も東アジアもそれ以後になってやたらに国際化したのだと、感慨深い。


ガッジョ・ディーロ』にはロマの歌や合奏がふんだんに盛り込まれる。ディープ・フォレストのアルバム『Boheme』を思い出す。それともちろん私はルーマニアを旅行させてもらったから、その風景や人々も思い出す。そして今こう思う。聴くだけの者、見るだけの者は、野蛮の側には立てない。歌う者、行う者だけが野蛮。

いや、日本の大人しく物わかりのいい私も、ときには野蛮の側に立つべきだと言いたいのだ。ディスコミュニケーションに困惑させられるばかりでなく、ディスコミュニケーションで困惑させる側に。そして実は、野蛮の国を観光していても、そういうことは図らずもあるのだ。