東京永久観光

【2019 輪廻転生】

★殺人ザルはいかにして経済に目覚めたか?/ポール・シーブライト


 殺人ザルはいかにして経済に目覚めたか?―― ヒトの進化からみた経済学

以下読書メモ。多くは書籍どおりでなく簡潔な文章に変換している。(訳者は山形浩生


<序など>

ホモ・サピエンスは、遺伝的につながりのない構成員と入念な分業を行う唯一の種。これが稀有であることを強調し、それがなぜ可能になったかを追及していく本のようだ。その進化形態としての経済や金融の秘密にも迫る。しかしそれと裏腹に、見ず知らずの人を信じ協力する我々の社会が特有に抱える落とし穴(環境破壊や経済的モラルハザードだと思われる)を指摘していくようだ。

現生人類の歴史は短い。1万年の間の直系の先祖を全員集めても中規模の講堂に全員が収まってしまう。その全員が本能や体格は遺伝的にほぼ同一。しかしそのうち車輪をみたことがあるのは半分、自動車を見たことがあるのは1%。(この見方が面白い。つまり、分業ができるのは社会的適応であり遺伝的な進化が起こったわけではない、ということ)

同書の最大キーワードは「協力」だとも言える。

そして、協力はある堅牢な制度を通じて実現された。それはお金。(こう見ることで貨幣制度の重要な位置づけが改めて認識できる。そして金融は、そのさらなる進化形という位置づけだろう)


<第1部 視野狭窄

<第1章 責任者は誰?>

全世界でシャツの流通は誰かが計画したわけでもないのになぜかうまくいく。(市場経済のマジックといったこと)

ソ連崩壊後の高級官僚が著者に言ったことがある。ロンドンの全人口にパンを供給する責任者はいったい誰なんだね? 責任者はいない。それがいかに奇妙であるかを私たちは忘れている。

ところで、ロシアでマルクス主義は半世紀続いた。しかしそれに続く自由民主主義はその後たった20年しか続かず、またもやナショナリズムの波が勢いを増しつつある。(たしかにそうだ)


<第2部へのプロローグ>

初期の人間には殺人や争いはチンパンジーと同じく当たり前だった。それに伴い人間の脳は警戒や疑いを優先する淘汰圧の下で進化を遂げた。したがって、彼らと私たちは遺伝的には違わない。彼らも現代社会に生きれば見知らぬ他人がいる都会にすんなり融け込んでみんな仲良くやれるはず。

止める誘因がなければ人は互いにきわめて暴力的だ。正気の人間が生来の器質だけで他人を信用することなどありえない。では人が他人を信用するのは何故だ? 信頼するという判断が理にかなうような社会生活の仕組みを作り上げてきたからだ。しかし事情はもう少し複雑であり、その仕組みが機能するのは、それが人間生来の器質を逆なでせず建設的な方法でそれを下敷きにしているからでもある。

ここまでがどうやら第二部の要約。

では、協力という方針を作り上げてきたものは何か。「打算」そして「返報性」。どちらか一方だけでは協力を生み出せない。ここポイントだろう。

以下の章では、強い返報性と打算のバランスが私たちの社会生活をどう支えているのか検証する。

ただしそれは、視野狭窄(近くのものしか見ていない)であっても社会はうまくいくことを可能にする一方、視野狭窄が思わぬ問題ももたらす。それは第3部で。


<第2部 殺人ざるから名誉ある友人へ――なぜ人は協力できるのか?>

<第2章> 人と自然のリスク

現代社会ではだれも自給自足でシャツを作ったりはしない。極貧のホピ族とものすごい金持ちにのヒッピーを除いては(面白い皮肉)

他人との交換に依存するリスクが、まわりの環境に一人で立ち向かうリスクに比べて大きいと考えるのは、通常はまちがっている。(いやホントにそうだ。私たちの多くは自由経済のありがたさを持ち上げ無さすぎなのだ)

旧ソ連について。中央計画化では専業化がきわめて促進されたが、それにかかる介在コストはまったく考慮されなかった(この具体例がいろいろと面白い)

アラル海の汚染は、綿花栽培の灌漑のために流れこむ川をせき止めた結果だった。つまり、当局が環境を犠牲にしてよいものとして扱うことが綿のシャツにさえ害を与えた(外部性の一例か)。

ウズベキスタンにおける無料エネルギー供給がもたらしたこと。マッチ不足のためガスコンロを1995年になってもつけっぱなしにしていた。

今日でもロシア北部の都市の共同住宅の多くは、数キロ離れたボイラーから凍土地下の断熱性の貧弱なパイプによる温水で暖房されていて、いまだに室内の温度を下げるには窓を開けるしかないというありさまだ。(サハリンなどの旅行で見た古いパイプラインはそれだったのかも)

共産圏の仕組みが経済性を失っても、こうした取引は長年続いた。負債がまったく返済されなかったので、双方とも悪銭に追い銭という無益なプロセスにロックインされてしまったのだった。

その共産主義が崩壊してどうなったか。《ロシア男性の平均寿命は1980年代には65歳だったが、1990年代半ばには57歳にまで低下した。45歳以上の男性の死亡率が倍近くに跳ね上がったせいだ。これにはたいていウォッカと暴力が関係し、それが組み合わさることで自殺率が増加した》(この事実に現代国際社会はもっと驚嘆すべきだろう)

ただ、旧ソ連の話がここの核心というわけでもないようで、次のようなくだりへ。

《今日の経済変動で損害を受ける人々の大部分は被害者でも犠牲者でもない。彼らは別のカテゴリーに属しており、新しい感情的で実践的な対応が必要なのに、歴史はそのための用意をまったく調えてくれていないのだ》(ここは少し意味不明)

どうしなければならないのか。人間が見知らぬ他人からの影響を大きく受けるようになったのは、わずかここ一万年。遺伝進化が寄与するにはあまりにも短すぎる。しかも、この影響が日常生活で圧倒的に大きくなったのはわずかここ200年ほど。だから、そうした遠く離れた他人の行動が与えるてくるたぐいの新しい危険に対処するには、古い(1万年前までに進化してきた狩猟採集民の)技能をそのまま使ってもうまくいかない。まったく異なる目的のために進化が与えてくれた別の技能、すなわち論理的な象徴的思考能力を活用する必要があった。

いささか唐突だが、テーマは飛躍・拡大するようだ。


<第3章> 私たちの暴力的な過去

ホモ・サピエンスの生得的殺人性。その証拠は3つある。

(1) 霊長類、特に大型類人猿における暴力。病的な例外としてかたづけることはできない。
(2) 現代の非工業化社会に関する民族学的研究報告。特筆すべき例『血こそが主張』 (マーヴィン・メギット著) パプアニューギニア高地の部族の暴力周期を記録。ここでのメッセージは明白で、制度による抑止がなければ非近親者の意図的な殺人は人間の間ではごく普通のこと。例外でも病的でもない。
(3) 考古学。骨による証拠。または防護のための城砦(半坡の濠など)

サミュエル・ボウルズの試算では、標準的な狩猟採集民族の場合、暴力が原因で死ぬ確率は14%。今日の世界では1.3%(戦争や都市暴力のすべてが含まれる) ちなみに、これよりも自殺が多い。交通事故もこれより多い。

《つまり、なにかずいぶんすごいことが起こったのだ》(すごいことが起こって、暴力による死亡が激変した)

集団暴力による死亡率は、国家などの中央集権型政治組織を導入した時期に激減している。13世紀〜20世紀、イギリスの殺人発生率は一定して減少傾向。

国家間の戦争頻度も減少している。ジャック・レヴィーによれば、戦争発生率は16、17世紀まではほぼ横ばいで、18、19世紀に急激に減少し、20世紀は19世紀とほぼ同等。20世紀は暴力による総死者数は多いが、そもそも総人口が多いためであり、割合では総死者数の4〜5%だろう。

(近代自由主義社会の素晴らしさを皮肉でなく実感すべきところ)

驚いたことに、非血縁者への信頼が現代社会生活であたりまえのことになった。店に行けば、私にこれまで会ったこともない人が、走り書きした紙切れ(小切手のこと)と交換に、貴重な品物を与えてくれる。


<第4章> 人類はどうやって暴力本能を手なづけてきたか?

現生人類はなぜ協力するのか。著者は、打算(利己心)だけではないとみて、それとは別ものの「返報性」を重視する。《もし他人が自分によくしてくれたら、お返しに自分のその人たちによくするが、もしも彼らが自分を傷つけたなら、彼らを傷つけ返す――それは報復が自分に得だと思うかとは関係ない。目には目を、しかし贈り物には贈り物をということだ》

エルンスト・フェールらによる一連の室内実験で、他人から親切な待遇を受けると、その相手と二度と再会することがなくても、そのお返しに親切な対応をすることが明らかになっている。

同時に。《協力の動機が他人による過去の親切だけで、不正行為に対する制裁がない場合には、当初は協力的な集団文化であっても、だんだん個人が誘惑に屈してそれが崩壊することがある》(つまり、贈り物には贈り物をだけでなく、目には目をも必要)

これには脳の神経も関与する。不正と感じる行為を働いた他人を罰するときは、快楽と関係する尾状核が活性化する。

つまり、返報性は、経済的報酬をもたらさないとしても、心理的な報酬はもたらす。だから、心理的報酬を求めるという点では利己的とも言える。

要するに、人は、利己性だけでは動かない=利己性とはちがう原理によって動く。そうでなければ、信用の網に属する理由を説明できない。どこかの誰かが利己性だけでは動かないと仮定しないと、判事の公平な判決も説明できない。つまり《合意を強制する公式の仕組みでも、親切には親切で、不親切には報復で報いるといういくらか本能的で非打算的な傾向を利用しなければならない。だがこうした仕組みにできるのは、わずかな強い返報性が大きな効果を発揮するよう保証することだ》

先史時代に見知らぬ人々に対する敵意と彼らと取引しようという用心深い思いの均衡を崩したのが強い返報性だったことはまちがいない。

文明化の過程とは? 「理性が感情に勝ったのか?」と問い、そうは言い切れないと著者は述べる。(つまり、むしろ感情が大いに役立った)

もともと西欧の知的伝統では感情は怪しいもの、理性によって抑制すべきものとしてあつかわれてきた。ノルベルト・エリア『文明化の過程』は、その西欧の伝統を現代的に表現した著作。

アリアスは、感情がだんだん理性に置き換わったことで暴力が減少してきた、と考えた。最近ではこれとは別の考えが出現してきた。理性は感情と置き換わるのではなく、
感情を活用することで社会生活に秩序を与えたとする考えた。(これがこの章の主旨をねじれさせている感もあるが)

打算だけを根拠に協力の進化を説明しようとするなら、狩猟採集民集団においてすら、これは大きな問題になる。しかし実際には、現生人類においては、わずかばかりの強い返報性が協力を魅力的なものにするには十分だった。

純粋な打算は、信頼を賢明に利用するが、信頼を呼び起こしたりはしない。ある人が自分の利益しか考えないと知っていたら、その人を騙さないよう気をつける一方で、その人を信用することにも用心深くなるはずだ。その人に対して自然に親しい振る舞いをすることもないだろう。親しい態度で何か変わるわけでもないのだから。

その反対に、《他人からの信頼を引き起こすという点では、打算に対して鈍感だということがまさにその強みになる。いまこちらが鷹揚にしておけば、将来相手がその時点での利害を無視して自分を助けてくれるとわかっているなら、こちらとしても相手を助けるだけのリスクを引き受けようという気になる。強い返報性の傾向のある人物は、そうではない人物に比べてパートナーとして信頼できる》

(まとめていえば)《これらの考察からすれば、抜け目なく信頼を利用しつつ、同時に他人から信用を得られる人は、他人との関係においてある程度の打算的傾向を持つ必要がある――ただしそれもほどほどでないと、他人につけこまれたり、過去の過ちの記憶が彼らの生活に大きく影響しすぎたりすることになる》

このシグナルとして進化したのが微笑みと笑いではないかと、マイケル・オーレンらは考えている。

さらに、ここにはオキシトシンが係わるのではないか。最近の研究では、オキシトシンが他人を信用する意欲を増進することがわかった。ただそれは単純ではない。
(つまり、オキシトシンによってコミュニケーション全体の調整がうまく行われるという主旨)

(いずれにしても)《他人の感情の巧みな操作は他人の信念操作と同様に人間関係の中心的課題であり、私たちはそれを常に行っている。それがコミュニケーションということだ》 ――感情操作と信念操作の2つが人間関係の中心的課題だという視点は面白い。なるほど。

では、そもそも強い返報性はなぜ進化したのか(それが次章の問い)


<第5章> 社会感情はいかに進化したか?

――この章は、強い返報性は進化心理学的な理論でどのように説明できるかという問題に答える。詳細な検討とは言えないが、進化理論(とりわけ個体淘汰、群淘汰とは何か)を非常にすっきり解説してくれているのが、吉だった。あるいは「進化心理学の演習」ができたというべきか。

(書き出しの文章がなかなか気がきいている)《人のような社会霊長類にとって、他のヒトが大量にいる部屋を通り抜けるには、予測不能なホルモンの潮流に自分の真理という不安定な船を漕ぎだす必要がある。知り合いはどこにいるのだろう。水平線を見渡すと、コルチゾール水準が上昇してきて、血圧も上昇してくる。友人が視界に入ってくるとオキシトシンに心が現れる――このまえ彼女は親切にしてくれた》

《人生を複雑にし、後悔するような行動をとらせるのは性ホルモンだけではない》 イギリスの公務員を対象にした調査では、相対的に低い地位に置かれていること(そしてそれに関連して職場で他人にこき使われてきたこと)が、心疾患などのストレス関連疾患リスクの増大と関係している。

――ここまでは、一般論的。このあと、強い返報性を支える感情に絞って、なぜそれをヒトが身につけたかの問いになる。

その人と再会することはないとわかっているのに、良いことをしてくれた人には良い報いを、悪いことをしてくれた人には悪い報いを返したがるのはなぜか?

進化上のまちがいではないかと考える研究者もいる。たしかにそれは上記の理屈からすれば間違いだが、しかしヒトに強い返報性が進化したのは上記の理屈のような社会生活が整うずっと以前のことだろうから、上記の理屈のような間違いは淘汰に影響するほどの期間を得ていない(だから進化理論と矛盾はしない)

強い返報性が進化した説明としてもう1つ。個人レベルではそれを抑制する淘汰圧が実際に存在しても、強い返報性を強いる集団ではそれが適応メリットにより相殺されたのではないか。そのような集団は他人との交易で有利になったかもしれないし、集団同士の演奏で結束力が強いかもしれない。

そもそも群淘汰は時に思われているような遺伝子淘汰の原理からの逸脱ではないことを強調する簡単な考え方を示そう。――として実際に示してくれる話がとても親切でポイントを逃していないと思われ、とても有益だった。

すなわち、すべての自然淘汰は遺伝子淘汰である。――最重要な基礎はここにつきているのだろう。

(少し詳しく言うと) 個体選択も群淘汰も遺伝子淘汰に代わるものではない。どちらも遺伝子淘汰の仕組みの1つとして考えるべき。つまり、個体選択はその遺伝子をもつ個体の生殖を助けることで直接そのコピーを作る。一方、群淘汰はその遺伝子をもつ他の個体の繁殖を助けて間接的にコピーを増やす。血縁淘汰も、ある遺伝子の保有者の遺伝子コピーを持っていそうな親族の繁殖に遺伝子が与える影響を通じた遺伝子淘汰である。

この基礎を踏まえ、強い返報性がなぜ進化したかを一応説明している。しかしその具体的説明自体は、まあそれは当然そう考えられるだろうというくらいの推論にすぎない。

(少し別の観点として) 協力行動ができると証明された個体は、娘たちの婿を探しているグループにとって重要な存在だったということも考えられる。

(そしてさらに進化心理学の基本とおもえる話)《どの説明が正しいにせよ、何か強い返報性が人間の脳に組み込まれているということでは決して無い。人間の脳には自然淘汰により数々のきわめて厳密な認識モジュールがあり、それが戦士だじには適応性を持っていたが、いまや現代社会には適応していないのだと一部の深化心理学者たちはここ数年ほど主張しており、これをもめぐって多くの論争が起こっている》

これらに関連して、アフリカの田舎で撮った生地の市場での写真で、誰が買い手で誰が売り手かすぐわかるのはなぜか。買い手は布を見ている、そして売り手は相手を見ているから。《このテストが興味深いのは、それが社会的状況を判断する高度な能力を実証していることだ。洗練されすぎていて、自分でもどうやっているのかわからずに社会的関係を判別しているわけだ。しかし人間の脳内には「市場関係探知メカニズム」が生得的にあるとは考えにくい》(先史時代に市場が頻繁に開かれていたわけではないはずだから) 《むしろ人間には社会的関係を判断する高度な才能があり、この才能を使って、どの社会的関係に経済的な重要性があるのか学ぶと考えたほうが筋が通る》

強い返報性も、どこまでが本能でどこまでが遺伝でどこまでが学習かは、なにもわからない。――というわけで何もわからないのだが 人間の行動や能力には「遺伝と学習」ということが密接に絡み合っているという基礎的な事実のとてもよい解説になっているので、非常に有益だった。

(返報性は、良いお返しだけの話ではない。復讐も同じこと)

シチリアのマフィア文化。これは複雑な現代社会における信頼の根拠となることを引き受けたのだという。なぜなら19世紀半ばにシチリアを統合したイタリア政府にはそれができなかったから(この話も興味深い) しかしこの役割には高い代償があった。信用の文化を強化する人間の動機は、同時に不信の文化を定着させかねないのだ。

(少し話が飛んで) 信用文化はだんだん大きな地域、国、そしてグローバルな信用文化へと徐々に統合されていく。《この過程を美化しないことが大切だ。見知らぬ人を信用できるといっても、それはその人が好きだとか、一人の人間として興味があるとか、その運命を多少なりとも深く気にかけているということではない。安心して確実に取引をするためには、相手を好きになったり気にかけたりしなくていいということがポイントだ》(この逆説は非常に面白いし不可欠)

ラノヴェッター「弱いつながり」をここで引いている。この書が出るまでの社会学は、現代的生活によって引き起こされた疎外感ばかりを強調し、それが現代社会に活力と創造力を与える条件そのものと結びついていることを無視してきた。

(そして、やや唐突だが、財産権というものに言及) 相手に親切にしておこうと考えるのは、相手が自分に報いてくれる日まで相手の財産が、略奪者から守られると保証されているからだ。つまり、二者間の信用は、二者のそれぞれの取引相手たちとの信用網の上に成り立っている。(これも社会や経済の基本中の基本と思えるが、言われて初めて気づいて驚く)

では見知らぬ人を信用しようとする意欲をこれほどまでに普及させる原因となった いくつかの社会制度について詳しく検討しよう。

1つは安全な都市はなぜ実現するのかについて。これは第10章。さらにもう1つは信用を生み出す制度として最も卓越したものの1つ。それはお金だ。次章へ。


<第6章> お金と人間関係

お金は信用を生み出す制度として最も卓越したものの1つ。著者はそう位置づける。貨幣そして金融がどのように定着したか、具体的な事件をとおして見ていく。興味深い

物々交換との比較。金融信用の網。

お金の自律性および交換媒体としての特質について。

ただし《一九九〇年代初めのほとんどの間、ルーブルはまるでどんぐりのようなものだった。欲しいだけ印刷すれば希少性が損なわれるのは避けがたい》

ドイツの収容所ではタバコが通貨になった。均質性、耐久性、一本単位で最小限の取引に使え、箱入りなら最大限の取引にも使える。イラクアメリカ兵の間でも。

なお、硬貨の出現は紀元前600年にまでさかのぼり、お金は文字より古いという人もいる。(驚き!) メソポタミアで見つかった譲渡性の借用証書は、最古の硬貨の2倍も古い。

では特定の通貨1つが普及した経緯は? 《結局のところ、共通通貨への収束をもたらしたのは、税金をその通貨で納めるべしという規定だった》

お金、匿名性、不安。お金や金融の自由さは危険と裏腹である。

《いまやほとんどの豊かな国でお金がずっと安全になったという事実のおかげで、残された危険はなおさら厄介なものとなる。それは私たちが見しらぬ人々と空前の規模でつながっている象徴なのだ》(視野狭窄のメリットだけでなくデメリットを執拗に見つめるところが、この本の特徴だ)

それに絡み、金融制度をコントロールするために、金融制度と同じくらい複雑な規則体制が生み出されることになった。それが第7章。


<第7章> 泥棒たちの信義

貸し借りの歴史は集団生活と同じくらい古く、獲物の肉の配分と同様に社会生活に深く根ざしていた。穀物の倉庫など。その穀物を貸し出しもしていた。

取り付け騒ぎの宿命的な悲劇性について。


<第8章> 銀行家の信義? 金融危機の原因とは


<第9章> 仕事と戦争におけるプロフェッショナリズムと達成点

細分化され専門家された分業が視野狭窄を生んでいること。

視野狭窄は、同書にとって「協力」と並ぶ、そして「協力」と対になる重要キーワード)

たとえば(けっこう本質的な説明)《良心的経営者でも、事業をうまく運営するという尊敬すべき探求のなかで、その従業員をストレスと苦痛にさらすことがある。良心的な労働組合員は、本来なら奉仕する相手の人たちに危害を加えるような混乱を職場にもたらすことがある。良心的な科学者が地球を汚染する薬品を考案することもあるし良心的な政治活動家が、何千キロも離れたところに住む、まさに利害を代弁するはずの人たちを傷つけることもある。これらの行為の結果は、彼らの誇りやプロ意識に訴えたところで決して完全に正されることはない。なぜなら彼らの誇りやプロ意識そのものがそのような結果の原因となっているからだ。別の言い方をすると、視野狭窄に対抗できるような適切な力をぶつけるのは倫理の役目ではなく、政治の役目なのだ》

そうした意図せぬ結果について理解しておくべし。それが第3部。


<第1部と第2部のエピローグ>

《第1部では、個人が買ったり売ったりするものについて市場で起きていること以上のことは気にかけないような生産交換活動の分散システムによって、驚くべきレベルまで強調が達成できることを述べた。現代の経済学分析によってこの主張はきわめて厳密になった》

パレート効率性について(基本と思われる簡単な説明)

ただし不完全な分散型市場にも問題があるし、不完全な中央集権型の行政構造にも問題がある。

《これを考えると、なぜ多くの工業先進国が戦時には中央集権政府により介入と計画を選んだのか――そしておかげでそのまま、平時の問題に対応するには適さないような官僚機構に縛られ続けることになってしまたのか――を説明できる》

実は競争市場は貧しい人の味方にはならないことがわかってきたという。

パレート理論は、個人が取引せざるをえない相手を信用するのが筋が通っているのはどういう場合かには何も触れていない。そこで、その事実自体の説明が必要だ。すなわち、《なぜ私たちは、見知らぬ人々でも通常は信用できると信じているのか? これが第2部の主題だった》

以下はたとえばだが、行儀よく振る舞うことは、互いの取引相手の性格や動機が不確実だと、実際に役に立つ。たとえその評判が本質からはなれたつくりものであっても、よい評判を得るインセンティブが存在するから。絶対に信用出来ないと知れ渡っている人たち(たとえばやくざか)にはこのような動機はない。

実験による発見と実地調査の分析により、人の動機は、ほとんどの経済学研究で支配的な仮説となっている単なる打算的な個性とは系統的に異なることが、確実に示された。

他人の信頼性をどこまで信用するよう促すかという点では、社会ごとにも大きな差がある。


<第3部へのプロローグ>

アリと人間の対比は誤解のもと。現代人間社会はアリやハチの世界とは似ていない。とはいえ、社会的昆虫は別の教訓を私たちに与えてくれる。

第3部は、2部を踏まえ、人間行動のもっと広い結果のいくつかに着目する。10章は都市。11章は環境問題、水の利用。

さらに、人間の重要な相互作用の多くは市場をまったく介したりしない。それを構成する活動がもっと意図的に協調された制度を通じて行われているのだ。その顕著な例が会社だ。

――協力に関する進化的考察、経済に関する事実的考察、この本はそれを行うところに真骨頂があると思えるが、さらに、企業というものの特異性にもうひとつ別個に注目するようで、そこが興味深い。そして、企業の分析が国家の分析やグローバリゼーションの分析につながって結論に至るようだ。


<第3部> 予想外の結果――家族の結束から工業都市まで

<第10章> 都市――古代アテナイから現代マンハッタンまで

華やかな大都市。偉大な都市を造るのは何だろうか、と問いかける。

納得のいく答えには共通点がある。そうした答えは、あらゆる偉大な都市が持つ、住民一人ひとりの単独の意思を超越する、ある性質を指摘している。

これにかぎっては誰も計画できない。ブラジリア、キャンベラなどは壮大ながら活気の欠如の代名詞だ。

《ネットワークによって人々が混ざりあったという事実がとても重要で、非常に洗練されたネットワークは逆説的ではあるが十分に人々を混ぜあわせないかもしれない。原始的すぎて非効率的なネットワークはアイデアを持った人々を引き合わせられないが、効率的すぎて予測がつくネットワークは、似たもの同士が時間を費やすだけで、公のルールがくそ真面目に尊重され、誰も予期せぬことに心を開いたりしない》

だから、《結局まちがいないこととして、創造性を直接目論むことなど不可能なのだ》《誰も芸術革命を計画などできないのと同様に、それを可能にするネットワークを計画する人もいない。それらは市井の人々が住所や職業を選ぶ時に彼らを動かす様々な相性の所産だ》

その例。《中世のバルセロナでは、誰かが地元意識を創り出そうとしたわけではないし、ましてやそのような詩的で感覚的な道路標識を作ろうとしたわけでもない。彼らは単に他のこと、主に生計を建てようとしていただけで、地元意識は彼らそれぞれの勝手な決定の結果として生まれたものだ》

「外部性」もまたその中から現れてくる。

視野狭窄が一部の外部性を無視するのは、予想できたにしてもあまり気にかけないせいだ。車の渋滞、大気汚染などなど。

《しかし、ほとんど予測することが難しいがゆえに顧みられない別の外部性も存在する》

悪臭とゴミ。中世バルセロナは、定期的にコレラやペストの流行に悩まされた。

パトリック・ジェースキント「川はくさかった。広場はくさかった。教会はくさかった。宮殿もまた橋の下と同様に悪臭を放っていた。百姓とひとしく神父もくさい。親方の妻も徒弟に劣らずにおっていた。貴族は誰といわずくさかった。王もまたくさかった」「パリはフランス最大の都市であったからには、悪臭もまたとび抜けて強烈だった」 18世紀パリの悪臭。

都市の統治。世界は後背地をもたないという単純な理由から一つの都市ではない。世界は自分自身の資源を探し出す必要があり、廃棄物を自分で処理しなければならない。

(それなのに、視野狭窄によって見過ごされてきた) その1つが水。第11章へ。


<第11章> 水――商品、それとも社会制度?

(原則)《希少性は、すべての財の最も基本的な経済的特性だ。実際、経済学の基本的義そのものが「競合する目的感における希少資源配分の研究」となっている》

水の多様な意味。(まさにいろいろな意味について述べている)たとえば《ヒンズー教カースト制度イデオロギー的基盤は、低いカーストに属する人が媒介する汚染に対する恐怖にあり、水はそのような感染の最も強力なシンボルになっている》

希少性と財産権。希少性としての水が、世界においてどのように扱われてきているか、詳述。(これはまさに経済とは何かの練習問題になる)

水を経済商品として扱うことは、どういうことか? すなわち、水に価格をつけることで世界にはどんな利点があるのか。水に値段をつける大きな利点は、より多く供給を受ける権利が誰にあるかを議論しなくていい。様々な水を取り巻く環境下で、世界中どこでも見ずを同じように扱わずにすむ。技術的制約の違いに応じて、違う解決方法が取れる。水の輸送や保存は規模の経済が機能する一方、水の浄化は各地で分散的に行ったほうがよい。(これらも勉強になった)

さてでは、そもそも価格制度はどのようにして確立したのか。12章へ。


<第12章> 何にでも価格?

調整役としての価格。《価格には将来に関する重要な情報が、入手可能で簡単に解釈可能な状態で集約されるという考えは、価格がいかに類まれな調整役として機能しているかを理解するときの鍵になる。シャツの価格は、買い手がシャツを所有する機会をどう評価しているかについて何かを伝えてくれる。生地、糸、ボタンの価格は、これらの製造者の、それを作りだすための苦労、出費、そしてつらい労働に対する考えについて何かを教えてくれる。二つのあいだに差があれば、それはシャツの所有者とシャツの製造者には、両者の利益になるような協定にいたる余地があるということだ。視野狭窄は、まさに二者間の調整という大きなジグソーパズルを埋めるときに働く。その調整は退屈だが、私たちの生活の構成要素全てをそれぞれ一人で作り上げていくのに比べれば、確実に飛躍的に豊かにしてくれる》(きわめて核心的なまとめ。視野狭窄ということの核心的な意味もここから改めてわかる)

世論調査としての価格。アメリカの大統領選をめぐる賭け(IEM) 世論調査には、これと違って調査員に本音を伝えるインセンティブはない。(しかも面白いことに)これらはお金は移動するが物の持ち主は変わらない。純粋に金融的なもの。ここで価格が果たす役割は、物やサービスがトレーダーに対して持つ価値の情報を示すこと。それがオークションではっきり目にするようになった。

オークション。何でも売り物か? 現代市場は信用と尊重に基づく贈与交換という精妙な遺産を駆逐した俗悪な打算なのか、と問う。

(これに対し著者はけっこう面白く意外にも感じられることを考える) 贈与は商業取引に比べて繊細で洗練されているかもしれない。それゆえ、その習得が容易な貴族のほうが有利だ。そうすると、贈与により社会の序列はまるで変わらない。贈与が交わされる条件は金銭価格より不透明だ。

なぜ現在、人は贈与より明示的な価格に支配されるようになったのか。ひとつの理由は、見知らぬ人々との取引に必要な思考と計算が知り合いとの取引にも導入されたのかもしれない。もう1つの理由は、財産権がかつてよりはっきりと規定されてきたことかもしれない。

明確な財産権の設定が最も重要になるのは、権利の対象となる資源の価値が高い場合(つまり希少) したがって、たとえば、土地所有権の制度は土地が不足している地域でこそ発達する。それに対しアフリカの多くの地域では土地は共同所有。なぜなら、そこで不足しているのは土地ではなく耕作人だからだ。財産権は所有の権利だけでは足りない。それを譲渡する権利も含まれる。スラムでは貧困者は土地や家屋を所有していると言ってよいが移譲権がない。それを担保に金を借りたりできない。

それでも、市場取引ではなく贈与取引によってでしか成立しにくい物もある。例としては腎臓移植。

それはなぜかとかんがえるに、《時としてこれは、家族内のように血縁による衝動や義務に縛られているせいだ》《しかし時には、市場によって現代生活における多くの活動要素の強調が達成されたとはいえ、それに張り合えるほどの強調を達成できる他の制度が存在するからかもしれない。そのような制度として最も顕著な例が現代の会社だろう》

――経済学にとって、家族とは、会社とは、それぞれ何かという面白い問いが、ここに浮上。

そのあとすぐにこう述べる。《多くの個人が明確な取引の一部として会社に参加し、通常は働くと約束するかわりに給料を約束される。しかし一度会社に入ってしまうと、日々の決定は市場の明確な論理とはまたちがった論理に支配される》

会社はどのように成立したのか。そして、会社と市場の境界はどこにあるのか。それが第13章。


<第13章> 家族と企業

会社の限界。

途上国の路地にひしめく小さな作業場。ここで働く人同士の関係は市場とはほとんど無関係。明確な返報性や価格制度などない命令系統で管理されている。これらの無数の島は、近代社会を組織するにあたって、市場という海と同様に欠かせない。

要するに、経済は企業だけをみていても不十分。

しかしながら、現代の企業とは、ここ2〜300年の現象。とりわけ前世紀。

農業は歴史の大半を通じて家族に依存してきた。それとは逆に自動車製造業は大企業に独占された(フォードなど) このちがいは一体なんだろう?

答えを理解するには家族に立ち返る必要がある。《家族は歴史の夜明けに唯一人類に知られていた、中央集権制度だ》 ただし、やがて集団的団結の必要性・有用性にも人々は気づく。そして、村、町、都市の建設。そして統治。

一方、統治という大きな集団的課題とは対照的に、通常の仕事(種まき、乳搾り、鍛冶、料理、取引、理髪など)は歴史の大半を通じて家庭内でこなせる範疇にあった。大規模が企業が一般的になったのは、ほんの2世紀ほど。

なぜ家族から企業へ、なぜ産業化したのか?

標準化と監視(これが企業の成立に重要だったとの主旨か)

たとえば。フランス南西部ヴィルヌーヴェットの王立工場(初期の実例) 18世紀イギリスの工場制度。

マルクスは、産業化は人間をその本質から疎外すると考えた。

そしてヘンリー・フォード。ここには産業化の本質がいろいろ見つけられる。これはアメリカだから成功した面がある。ヨーロッパではマスマーケットが現れにくい(国々の法や規則によって分断されているため) また、アメリカ人だけが安っぽい標準化された車や服や家具で我慢できた。

規模の大きさが標準化を可能にした。しかも、標準化は規模の大きさにとって必須の条件でもあった。

《逆に規模があまり重視されない活動では、家族のほうが大企業よりずっと有利なこともある。一般的に、まともに標準化できない仕事では規模はあまり問題にならない》これはかなりの先進技術でも存在する。

そもそも会社の多くは同族事業から始まっている。アメリカでも9割は家族経営。ただし残りの1割が経済活動の大部分を占める。家族企業からの脱却という課題。アメリカとドイツがこれに成功したのに対し、イギリスはこれに失敗したから衰退したと指摘されている。

部外者を会社に取り込む伝統的な方法は、結婚。しかしこれは国よって異なる。中国の家族ビジネスには部外者を引き入れる文化的モデルがない。一方、日本人は部外者を引き入れる文化的モデルをもっているので、大企業がより一般的。

ビジネスの規模を考えるときに、文化モデルだけでなく法律も重要。負債をもつか株主をもつか。そしてそれによって会社がどのように支配し支配されるかという焦点が浮上する。

《市場は見知らぬ人同士が互いに交換する手段を提供する。現代市場を支えている複雑な制度は、そのような交換に必要な信用を確立するための方法だと思えばいい。同じように、現代の企業も、見知らぬ人が生産活動のために強力する方法を提供している。その活動には交換よりもやるべきことが多く、大規模な集中、計画、階層構造が欠かせない》 ――会社も市場と同じく、見知らぬ人同士が安全に交換できる仕組みの1つであり、しかも、その仕組を成立させるための方法論が様々に鍛え上げられてきた。

《それらは血のつながりがなく互いのことをあまり知らない人々に、資源、暮らし向き、時には命までをたがいの手に委ねさせる》

それでも必ずしも大規模な企業が有利ではない。レストランの多くは小規模ビジネス。そうでないレストランは洗練や創造性を犠牲にして、標準化を売り物にする。

テクノロジーと企業規模。現代のテクノロジーでこれらすべてはどう変わるだろう?

情報革命のどこが革命的か。工程の標準化。業務に関する知識を人から人へと、つらい徒弟制度を経なくても伝達できる。

デジタル化が進むことで企業の境界を超えて価値のある情報が漏れやすくなってきた。
プロテスタント教会が、カトリックから独立できたのも同じこと。――これは面白い視点。だがこの話はけっこう複雑。以下のようにも主張する。

有益な知識の蓄えをマウスのクリックだけで世界中に広められるという話も誇張すべきではない。情報技術は、ダイヤの原石の評価技術、魚が新鮮な匂いかどうか、そのドレスが似合うかどうかをまだ教えてはくれない。

企業とその環境からくる制約。大きな集団が小さな集団よりも有利なのは、その集団が環境にうまく適応した策略を持っている場合にかぎられる。――当たり前だが、それでもなお、企業というまとまりが成立したということ自体の意義は大きい。少なくとも、企業はごく最近まで存在しなかったのだから(以下のごとく)

《農業の黎明期依頼、人類の歴史の大半――ここ一万年のうち約九五〇〇年ほど――を通じて、知識の管理は、将官、司祭、そして(もっと最近では)熟練工にだけ許された特権だった。これから第14章で見るように、知識がこれらのグループによる独占を免れることで、現代世界の分業はこうした複雑、豊か、かつ危険な形態をとるようになったのだ》


<第14章> 知識と象徴体系

ショーヴェ洞窟の壁画(人類最古の象徴的人工物)

象徴表現と物理的な人工物の創造。この2つが組み合わさったときの驚くべき力。
象徴表現とはコミュニケーションのために記号を使用すること。その記号と外界との関連はそもそも恣意的であっても、その意味は社会習慣に依拠し補強される。それらが新たに予想もしなかったような組み替えができるという点が、その記号に単なる自然の機械的コピーを凌駕する流動性と表現力を与えている。

――これも実に重要な視点。この本は経済活動を見つめる哲学、心理活動を見つめる進化学に加え、知能活動を見つめるいわば言語認知科学まで動員されると言える。

《象徴的思考によって、過去や未来の出来事を現在のものと同じように表現し、想像上の出来事を現実の出来事と、一般概念を獣の喩えと、希望や恐れを夢を叫びや要望と同じように表現できたことで、世界についての情報を伝達する人間の能力は、根本的に変化した》 そして象徴体系を画期的なものにしたのは、それが物理的な人工物として具象化されたことによる。

ネアンデルタール人の象徴体系は、発せられたらすぐに空中に消えてしまった。

象徴的人工物。それらは概して脳組織よりも耐久性があった。共有もできた。

――ここから著作権の話になって、ちょっと主旨がよれてくる印象。物の保護かアイディアの保護かという問いもあるが。


<第15章> 排除――失業、貧困、病気

貧しい国の村はどれもみな情報の孤島だ。つまり、隣人は物理的には離れていないが、
信用できるかという点に関しては、彼は情報の孤島に住んでいるも同然だ。(この視点も非常に新鮮に感じられる)

さらに同類マッチングという方法が情報の孤島の住人をさらに孤立させた。

すなわち、社会で最も重要な制度の構成員資格は、旧来の出自によるヒエラルキーに変わって、技能のヒエラルキーによって決定されるようになった。才能のある個人は他の才能ある個人と一緒になるために村を出るようになった。たとえば、高給取りは別の高給取りと結婚する。

1950年代のアメリカの代表的企業ゼネラルモータースは、技能の高い人も低い人も両方雇っていたが、20世紀の代表的企業はマイクロソフトマクドナルドになった。技能の高い人と低い人が今や同じ会社で働かなくなったことは重要だ。会社間よりも会社内で情報が効率よく流れるため、低技能者にはますます情報がいなかくなるからだ。(ここも、はっとするような現代的事実の指摘)

同類マッチングは、どのようにして起こるか。個人の生産性は本人の才能と努力だけでなく一緒に働く人々の才能や努力にも左右される。つまり、会社では個人が互いに外部性を強いているということだ。それゆえ、才能ある者は才能ある者と手を組み、残りものは残りものと組む。もう少し入念にみると、チーム全体の生産性はチーム全体のなかで最も弱い者の才能と努力に左右される。

このようにして、インド南部の何十万もの村などが情報の孤島のままとなる。

病気と排除。医療判断もまた保険会社や医師自身の利害や思惑がからみ経済的な行為となる。委任された意思決定の避けがたい歪み。

――この章は読んでいて焦点がわかりにくかったが、以下のようなことか?

現代社会の市民なら、完全といえないまでも、ご先祖たちには想像もつかないくらいうまく機能する信用協定に与れる一方で、そこから排除された人々にはそれがかなり断片的にしか機能せず、ときにはまったく働かないというのは事実だ。排除された人々の状況が昔に比べれば改善されたという点に関しては、集団行動の意識的努力によるところが大きい》《集団行動は分業の欠陥をどのくらい埋め合わせてくれるのか?》 それについては第4部で


<第3部のエピローグ>

第3部の主題は、集団としての人間社会の性質が外部性の遍在によってどのように形作られているか、ということだ。これは経済学者には無限の魅力を持っている(そういうものか)

この外部性の1つが情報。そして、たとえば企業は、ある種の情報なら市場より効率的に伝達できるので、ある種の活動をまとめる場合のこの優位性が市場に対する企業の強みとなっている。この優位性が強いと企業は巨大化し、分散的な市場活動の大海のなかで階層構造と計画の大きな島として屹立することになる。(集団のメリットということか) しかし集団は必ずしも良いことばかりをもたらさない。

第4部ではあらゆるもののなかで最も致命的な外部性の1つを探求しよう。(軍事か)


<第4部へのプロローグ>

農業が急速に定着したのが何故かは謎。農業は狩猟より楽とは言えない。防衛が大変。
初期の農耕民は狩猟民より健康状態が悪かったという証拠もある。

農業は世界の7箇所で独自に始まったようだ。

農耕は人類にとって自衛のために集団形成する優位性を飛躍的に増大させた。そして
純粋に防衛に限定される技術などなく、先史時代の男たちは攻撃者から身を守るための棍棒を他人の攻撃にも使った。

《過密と病気という外部性と同様に、これらの相互作用はそれぞれを不可避にみんなの集団利益に反する行動へと導く》

第4部では、攻撃、防衛の単純な理論が近代社会の構造に対して持つ意味を描く。

3つの脅威 (1) 近所に与える脅威  (2)内部で防衛を依頼した者からの脅威 →軍事政権樹立の脅威 (3)軍事力の基礎となっている波乱に満ちた無秩序な経済的繁栄そのものからくる脅威。敵も味方も同じように武装させる分業の民主主義的平等は、太古より戦争の1つの特質。

第16章では、近代国家が定住農耕共同体の単純な防衛手段として築かれて以来どのように発展してきたかを見る。歴史的には、すべての共同体を維持させている共通の重力は防衛のために結束する必要性だった。近隣とつきあう社会は2種類の戦略のどちらかを選択するよう絶えず迫られた。繁栄による力か、力による繁栄か。

そして、国家が誘惑されるのは軍事だけではない。近代国家は今や、徴税、補助金所得再分配、市場規制、失業対策で介入する。《つまり、近代国家は市民、企業、市場の活動を、歴史的に前例のないほど制限しているのだ》これらの活動は視野狭窄を補う可能性がある。しかし同時に、国家ができることに対する制限の必要性も強めた。

国家は今や分業をしている(王様ではなく省庁によって) そして、不気味なことに市場社会自体に似た視野狭窄に陥っている。視野の狭い者が視野の狭い者を導いている状態とも言える。

第17章では、1万年前に始まったグローバリゼーションの到達点(21世紀)を問う。


<第16章> 国家と帝国

防衛と攻撃。農耕社会における防衛の公共財的性質。誰がそれらに貢献したかとは無関係に共同体に全員に適用される。だから、もしも作業の分担について強制力による何らかの取り決めがなければ、みんなが他人にただ乗りしようとする。そうした強制力による取り決めは権力の集中と行使を示唆している。だから、共同体秩序の制度が最初の農耕改革の自然な帰結であった理由もこれでわかる

農耕技術はどのように伝播したか。遺伝子の変化と顕著に一致する。つまり農耕生活様式が主に文化模倣によって広がったという説が疑わしくなった。むしろ移住によって広がった。=人と技術が同時に移動した。(ここの主旨がよくわからない)

力と繁栄。紀元前11世紀にフェニキア都市国家が興ると、力による繁栄ではなく繁栄による力という別の戦略を追求する社会が出現した。

繁栄による力という戦略の特質は、隣人の一部を単なる脅威ではなく資源としてあつかう必要があることだった。隣国に、少なくとも敵ではなく同盟国や貿易相手国として接するのが賢明となった。それは軍事面でも大きな意味があり、兵器を買えたし傭兵を雇えた。また同じかそれ以上重要なこととして、軍事へのモチベーションが与えられた。
ギリシア都市国家は「文明史上初めて、独立した自由な地主兵士――民兵、農場主、有権者が一つになったもの――を配備した、合意に基づいた政治体制」であったと、ハンソンは論じている。

トゥキディデスペロポネソス戦記の第一巻。ペロポネソス人たちは、貧困を理由に互いに攻撃しあったことしかなかったため、海を渡って長期戦をした経験もない。戦争を続けるために必要なのは強制出資ではなく資本だということを忘れてはならない。

商業路線の三つの欠点。ここ5千年間、国家と帝国(前者はおおむね商業にもとづき、後者はおおむね強制力にもとづいている)の間の競争は、運命の振幅を何度も経験してきた。これは13章の企業間の競争とも似ている。成功した都市国家が帝国に姿を変えたり、不成功に終わった帝国が分裂して競り合う複数国家になったりすることもあった。

多くのイノベーションが国家と帝国間に与えた影響はどっちつかず。(最初は国家に恩恵、やがて帝国に恩恵など)

力の不均衡の危険性。大きな3つの欠点。

富んだ国は近隣国にとって不安の原因になる。繁栄を誇るアテナイに直面したスパルタの不安のおかげで、ペロポネソス戦争が起きた。近隣同士の貿易は戦争の可能性を下げるという現代の一般的な考え方には、まともな歴史的根拠はない。近隣同士が一時的にせよ均衡状態を確立した場合でも、それを脅威と感じる離れた近隣国が必ず存在する。ここ500年のヨーロッパ諸国の帝国的野望。

古くから軍事戦略家たちは、競合国間の力の不均衡、なかでもその増大が、敵意の爆発を引き起こす最も有力な原因だと知っていた。

軍人と民間人。繁栄によって力を築く戦略の2つ目の欠点は、商業によって防衛戦略を成功させるには、あらゆる商業戦略を成功させるときと同様に、専門家とそれ以外の人の分業が必要になることだ。そうして、職業軍人は守るべき人に対して強大な力を持つようになる。実際、国内での権力行使をいかに抑制するかということが、近代政治哲学では中心課題になったと言っても言い過ぎではない。

武器市場=3つめの欠点。自由な設計者は金を払う人には誰にでも武器を売る。

政府の仕事。巨大な政府の予算(国民所得の何割も) その政治的命令の効力は軍事力によって支えられている。だからといって政府は欲しいものをいつでも手に入れられるわけではない。経済的活気が大きくなるほど、多様、分散、コントロールに対する抵抗が大きくなる。

しかしながら、あらゆる政府の規制政策は、一貫性のある見通しの結果として生じることは稀で、むしろ目先の問題に対する場当たり的な対応の連続となっている。

政府の仕事も分業を免れない。これは仕事の規模からいって仕方がない。つまり、それぞれの専門家は政治圧力からは隔絶したかたちで任命される。政治的圧力自体も多様な主導権の産物。複雑な現代社会における政府が他のかたちで存在することなどあり得ない。

というわけで(?)《社会における分業がどこへ向かおうとしているのか懸念するのであれば、政府の介入で問題が解決すると思ってしまうのには用心すべきだろう。むしろ同じ問題を、時にはもっと御しやすい形とはいえ、別の形で提示しなおすだけかもしれないのだ》 政治は分業の欠点を改善しようとする活動のなかで、まさにその分業を再生してしまう。こうして提示された解決策が、最初の問題よりもより安全だと確信できるだろうか? (これがこの章の主旨か)

21世紀初頭。貧困、戦争、地球環境へのダメージ。これまでのやり方は失敗したと人々の多くは思い込んでいる。放送と電気通信のおかげで知らされる問題は伝統的な政治プロセスが解決を約束できるものより深刻だ。グローバリゼーションは手に負えないものになってのだと、多くの市民が思っている。金融危機もその確信を強化させている。

だが本当にそうだろうか? ホモ・サピエンス・サピエンスが一万年前に開始した大いなる試み(グローバリゼーションのことだと思われる)は、もやは我慢できる限界にまで来てしまったのだろうか? それを中断させることなど、そもそも考えられるのだろうか?

そして第17章へ。


<第17章> グローバリゼーションと政治活動

*メモ残りあとわずか。


<訳者解説>

本書のテーマは協力の深化と発展。ただし分業は、視野狭窄とタコツボ化を生む。

しかし(*ここが重要だと思うが)《人々の視野の狭さ、周囲への無関心は、冷淡さや協力の拒否だと思われることが多い。だが実際には、それは協力の成功を示すものだったりする。他人を信用し、活動を任せきるからこそ視野狭窄が起こることもあるのだ。
それがプロフェッショナル、専門性、職人気質と呼ばれることもある》

とはいえ、それと裏腹に、協力の成功こそが往々にしてそうした制度のもたらす各種の問題(戦争・環境問題・金融危機)の原因であることも、はっきり見えてくる。

本書は、序、各パートの冒頭と最後でそれぞれの部分について見事や要約が行われている。

本書の含意(協力の未来とは) まず一つ言えるのは、あまり楽観的になることはできないということだ。文明の発展は必然ではない。とはいえ、《これまでの戦争を含む凄惨な協力の瓦解に比べれば、金融危機ごときが大問題になること自体で、いまの人類がいかに協力に成功しているかがよくわかる》(*山形氏らしい指摘か)


=本筋とはあまり関係ない感想=

経済学はじつは裾野が広いのだという主旨のことを、最初のほうで著者が述べている。実際 著者は現生人類の進化や古代からの歴史にも詳しいと思われる。知識のある人にとって知識とは共通部分が多く、各人の専門分野とは出力する際の便宜的な分野にすぎないとも言えるのではないか。だから、この本のような内容は、経済学として書いてもよいし生物学として書いてもよいしエッセイでもよいし小説でもよいのではないか。ブログでもよい。