「あなたのお気に入りの、深遠で、エレガントで、美しい説明は何ですか?」
この問いに、第一線の知性が渾身のしかも個性ある回答をそれぞれ示す。まさに珠玉の一冊。アメリカの学者が中心で、分野は生物学者、物理学者、心理学者などなど。有名な名前もいくつも並ぶ。なぜ149人かは不明。
予想されるとおり「ダーウィンの進化論」に絡んだ回答が非常に多い。回答者の1人リチャード・ドーキンスは、それは当然としたうえで、その理由を次のように述べている。
《それが説明するおびただしい量の事柄を、それが依拠する数少ない仮定で割った比は、ともかくも巨大だ。人間がこれまで理解してきた諸分野において、これほど少ない数の仮定のもとにこれほど多くの事実が説明されたことは、ほかにない。エレガントさはその通りだが、深遠さはと言うと、19世紀になるまで誰からも隠されていた》(長谷川眞理子 訳)
ここで「説明」というキーワード、とりわけ近代科学における「説明」ということの厳密さや破壊力を思い起こす。(そうして、昨年出会った本『無限の始まり』がまた、その「科学=説明」とは何ぞやがテーマだったかな、ということにも思い至る)
他にどんな回答があるのか。ほんの少しはわかりそうとか、これはどうせわからないにしてもぜひ知りたいとか思うものを挙げてみると――
○ 熱力学の第二法則に対するボルツマンの説明
○ 数学的実体か、自然の実体か?
○ アインシュタインは、なぜ重力は普遍的なのかを説明する
○ なぜ私たちの世界は理解可能なのか?
○ 本質的な物質の次のレベル
○ 観察者が観察する
○ 私たちの合理性の限界
○ 言語と自然淘汰
○ メタ表象がヒトのユニークさを説明する
○ 始まりには理論があった
○ 鳥類は恐竜の直接の子孫である
○ 単純さから生まれる複雑さ
○ ラッセルの記述理論
○ 心には隠喩がある
○ オッカムのカミソリ
○ お金の起源
○ メタボリックシンドローム:有毒な世界への細胞エネルギーの適応?
○ 死は最後の返済
○ 可算無限と心的状態
○ 逆べき乗則
○ ユニバーサル・チューリング・マシン
○ われれは星屑
というか、いや、このほかもすべて、2ページから4ページときわめて短い文章なのが何より素晴らしい! 決定的な真理とは連続ツイート10回くらいで語りぬくべきものなのだろう。
さて、上記に挙げたうち、個人的に特に覚醒させられた1つ「メタ表象がヒトのユニークさを説明する」について、以下に記しておこう。
結論はこうだ。
《おそらく、他のどんな認知的形質よりも、自分自身の表象を使って、表象を表象する能力こそが、人間がこれまでに成し遂げたことを説明する。この能力がなければ、私たちの種を特徴づける複雑な社会的認知はすべて、不可能だったろう》
詳しくは同書を読むに限るが、どういうことか、もう少し引用。
《表象を表象するには二つの方法がある。一つは非常に強力で、もう一つは、どちらかというと稚拙だ。稚拙な方法は、表象されるべきすべての表象について、それぞれ新しい表象を作ることだ。そのような方法を用いると、メアリは、「ポールはこれから雨が降るだろうと思っている」という表象を、彼女自身が持っている、「これから雨が降るだろう」という表象とはまったく独立に作ることになる。そうすると、彼女は、「ポールはこれから雨が降るだろうと思っている」ということから導かれるすべての推論、たとえば、ポールがこれからジョギングに行きたいと思っていることに対して、このことが持つ負の効果や、彼が雨傘を探そうとする確率が上がることなどを、全部、新たに学習せねばならない。このようなややこしいプロセスは、「ポールは、今日の天気は素晴らしいと思っている」ということから、「ルースは、明日、ダウ・ジョーンズが崩れるのではないかと死杯している」ということまで、メアリが帰属させたいと思っているすべての新しい表象について、いちいち繰り返されねばならない。 人が、他人のどんな思考についてもなんでも帰属させることができるという驚くべき能力を、こんなプロセスで説明することはできないに違いない。では、この能力をどうやって説明すればいいだろう?
その説明は、私たちは、自分自身の表象を他人の思考に帰属させることに使っている、ということにある。メアリがポールに「これから雨が降るだろう」という信念を帰属させようとするとき、彼女は単に、「これから雨が降るだろう」という自分自身の表象を使って、「ポールは、『これから雨が降るだろう』と思っている」というように、それをメタ表象の中に埋め込んでいるのだ。同じ表象が使われているために、メアリは、自分が「これから雨が降るだろう」ということから導くことができる推論を使って、「ポールは『これから雨が降るだろう』と思っている」という推論を導くことができる利点がある。このトリックは、人間に、自分たちの社会環境を比類ないやり方で理解するための扉を開いたのだった。》
この回答はユーゴー・メルシエという人のものだが、メタ表象という説明はダン・スペルベルという人に由来するとして敬意を示している。
しかも、別のクレイ・シャーキーという人も、この「ダン・スペルベルの文化の説明」こそが、今回の回答に値するとしている。これもほんの少しだけ以下に引用。
《すべての文化伝達は、二つのタイプのうちの一つに還元される。心的表象を公的なものにすることであるか、公的な表象を自分の心的表象へと内在化させるかの、どちらかだ。スペルベルが述べているように、「文化とは、人間の集団の中で、認知とコミュニケーションからわき出してくるものである」》
《一握りの原因を用いて、多くの数の効果を解釈するという意味での還元主義が、社会科学で実際に使われることはまれなのだが、スペルベルは、文化に関する、広範囲にわたるあいまいな疑問を、実行可能な研究プログラムへと書き直すための枠組みを提供してくれた》
生物がなぜこうなのかをダーウィンが初めて説明したように、文化がなぜこうなのかはスペルベルが説明した、ということになろう。
そのスペルベルもまた同書に回答を寄せている。かなり迂回しつつも最終的にズバリ核心を述べる。スペルベルの回答は、私なりに言えば「この世界全体を貫くほどの普遍性をもった理解や議論を人間ができるのはいったい何故だ?」というきわめて重大な問いへの回答だ。「それは表象もしくはメタ表象を持つという能力があるからこそだ」と、スペルベルは考えているようなのだ。エッセンスと思ったのは以下。
《とどのつまり、表象とは非常に特殊なものであり、人間や、彼らが生み出すものなど、情報処理装置の中にのみ存在する。表象には、「真か偽か」「一貫性」など、いくつか、それ固有の性質があり、これ以外のどんなものも、そういった性質を持たない。しかし、これらのメタ表象モジュールが処理している表象それ自体が、なんでもありだったなら、そこには、バーチャルな領域一般性が生まれるだろう。そこで、メタ表象による思考は、真に一般生があり、特殊化はしていないという幻想が生まれる》
ところで、「あなたのお気に入りの、深遠で、エレガントで、美しい説明は何ですか?」という問いを投げたのはスティーブン・ピンカーだったという。
そういえば最近NHKテレビでピンカーを見たなあ、人類の暴力について講じていたなあと思いながら、ピンカー自身の回答を読んでみると、やはり、自然淘汰の理論をベースにしたうえで「…私たちの暮らしの物語の大部分は、傷心、罪の意識、友人や親戚や競争者との間で起こる対抗意識など、葛藤の物語である」などと断言している。
とにかく隙のないその言い切りに、冗長で曖昧な日本人の私などは圧倒されてしまう。そんな反応を予測してか、最後には以下のエクスキューズが付いてくる。同じく隙なく言い切るエクスキューズではあるが。
《だからと言って、これらすべては、人間が遺伝子に操られるロボットだという意味ではない。複雑な形質が単一の遺伝子で支配されているという意味でもない。喧嘩をしたり、強姦したり、女遊びをしたりすることが道徳的に許されるという意味でもない。人間は、できるだけ多くの子どもを持つようにするべきだという意味でもない。人間は、自分の文化から何の影響も受けないという意味でもない。(…)》
もちろん「ピンカー萌え」の人は日本にも多いだろう。
ちなみに、ダン・スペルベルは以前『関連性理論』という本を著し(共著)、言語使用やコミュニケーションに関する分析を行っていた。大昔たまたま読んで忘れられない一冊になっていたが、今回久しぶりにその著者に再会した形。「長く生きるといろいろある」(これこそ最も深遠な人生の説明か)