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【2019 輪廻転生】

★それでも、生きてゆく/フジテレビドラマ(2011)

 「それでも、生きてゆく」ディレクターズカット完全版 (初回封入特典終了) [DVD]


最高の離婚』と同じ瑛太の出演と坂元裕二の脚本ということでDVDを視聴。ヒロインは満島ひかり


レンタルDVDだが二晩で全部見てしまった。「生涯のベスト1」と言っていいほど感動。ドラマにこれほど心が揺り動かされるのは、なんかおかしいのではないか、という疑問すらわいた。


第8話あたりで予想を悪く裏切って急変する。まさかと思う人が殺され、まさかと思う人が「娘を返してくれ」と叫ぶことになる。全員が地獄に行かされるドラマなのかと暗澹たる気分になった。そのころの仕事をめぐる心労を越えるほどのストレスだった。特に父の時任三郎は見ていられないほど つらい。ストレスをこれほどマジに感じるドラマは案外少ない。

ただ、そうしたひどいストーリーの背後に、恋愛ストーリーがある。だから面白く、だから涙も流れる。

もちろん、殺人の被害者家族と加害者家族がこのように出会い和解し成長していくという設定には、どうしても無理がある。まして互いに惹かれ合うという設定、しかもそれがこれほど見事に美しい恋愛になるのには、もっと無理がある。

それでも、この2人のラブストーリーがリアルだと思えるのは、無理な設定でありながらも、そこで奏でられる心情がきわめてリアルだからだろう。そして、なぜ2人の心情がリアルかというと、台詞がきわめて的確だからだろう。

もちろん台詞はデフォルメされている。人が実際にはあんなに長くしゃべることもないだろう。しかし、デフォルメされているかどうかは重要ではなく、デフォルメされる元の心情がリアルかどうかが重要なのであり、その観点からみて2人の心情はかぎりなくリアルだと思えた。


第5話から最終の第11話まで見なおしてみた。以下メモ的に。

2人きりのシーンというのは案外少ない(それを取り戻すかのように、最終話だけは2人きりのシーンが多い)

その2人きりのシーンはどれも、永久保存にして繰り返し見たいと思うほど素晴らしい。そして結局のところ、互いに惹かれ合う、そのことが、つまり、素晴らしいし面白いのだろう。

釣り店で、「いつかうまくいきますよ。遠山さん、頑張ってるから」といった主旨のことを、瑛太が満島に言うシーン。

千葉から車で帰る途中、自殺をほのめかした満島に瑛太が怒るシーン。

瑛太が携帯電話に告白のメッセージを吹き込みつつ、映像では満島が「ごめんなさい 好きでした」とナプキンに書いているシーン。(2つの言葉はともに相手には届かないままになる)

「だから、なんというか、復讐より大事なものがあるんじゃないかと思って……」

墓参のあと、釣り店で、満島の「最近どうですか」から始まる、互いの愛がようやく確認され、しかし同時に別れが確定されるまでの、長いシーン。「過去的な」「未来的な」

そして最後のデートのシーン。そしてその日の最後のシーン。ここがやっぱり最もよい。台詞を含めて完璧だ。控えめなラブシーンがまた忘れがたい。足を踏んだりして。

ここを見てわかった。そうか、それまでの2人の控えめな会話と控えめな惹かれ合いは、このラブシーンに至るまでの、それ以上に控えめな積み重ねだったのだ。そうしてやはりこのドラマは「ラブストーリーだったのだ」と確信した。

それでも2人はやはり結びつくことはかなわなかった。「加害者の妹だからです」。この言葉は重い。しかし、文哉とともに生きるという共通の目的が、2人の絆に、そして2人の未来への希望になっていく。そこがドラマとしても落とし所。


2人の最後の「会話」は木の枝に結び付けられた言葉で語られた。おそらく直接は届いていない言葉のリフレイン。


本来ドラマの出来事の主軸にあるのは、禍々しい殺人犯罪とそれに伴う両家族の苦悩だろう。しかし、その苦悩が苦悩であればあるほど、恋愛のドラマの背景としては、またとない効果を上げる。自由な現代にあって「惹かれ合ってはならない2人」という設定は、こうした設定でしか成立しないとも言える。


ただ、この恋愛する2人に比して、殺人を犯した文哉の、その後の人生の展開と、それらの最も底にある心の闇については、とうとう明瞭にはならなかった。(被害者家族、加害者家族の人生についてなら物語として十分に描かれていると思えるのに)

因島で3人がオムライスを食べるシーンで、瑛太の長台詞はちょっと浮く。それは脚本家自身もそう思った可能性がある。だから、文哉は、そこで自分の闇を知り悔い改めるという当然期待されるようなリアクションを行わない(行わせない)。
◎参照:http://www.excite.co.jp/News/reviewmov/20120224/E1330012746536.html?_p=3(脚本家インタビュー)

結局、文哉の犯罪は心の病気といえばそれが最も正解であり、テレビドラマ的な心情や交友や説得や和解とはだいぶ異なったところに核心があるのだろう。

人生において恋愛という謎は、多くの人にとっていつか解ける謎なのだと思う。このドラマもまた、恋愛の謎をひとつしっかりと解いたと言いたい。しかし、たとえば殺人ということの謎は、やっぱりなかなか解けないということなのではないか。(もちろん、なんの謎でもないような殺人もあるだろうが)


コミカルな台詞や、たとえの意表をつく可笑しさ。『最高の離婚』に負けない。たとえば―― 
カップ焼きそばに お湯より先にソースを入れてしまう。「ニコラス・ケイジに似ているインド人の人がいて…」。 カラオケの店員がとても日焼けしている。冷凍みかんなんて「100億分の1の力でできますよ」。弟がアナゴさんと同い年というのにも驚き、笑った。


 *


以下は難しげだが、ドラマに感動するのはドラマに騙されていることなのか、という問いと、そこに佐村河内騒動を絡めた思索――

佐村河内氏の騒動とは、「ある物語に感動したが、その物語が事実ではないとわかったので、騙された気持ちになっている」ということだと思う。

一方、ドラマの物語もまた事実ではないわけだが、こちらは騙されたとは感じない。それは当然で、ドラマの場合は物語が事実ではないと最初から知っているから騙されたとは感じないのだ。

ただ、これに絡んで、ふと考えてしまったことがある。

ひょっとして我々は、「自分自身に関する事実や家族や友人に関する事実にもまた、物語として感動するのではないか」ということだ。たとえば、とても身近な人が亡くなったとき、その事実をなんらかの物語として捉えることがまったくなければ、悲しかったり泣いたりもしないのではないか、と。

こんなことを書きながら、人の人生に冷水を浴びせたいのかというと、そうではない。その反対だ。

事実が物語に変わるとき、そこにはなんらかの解釈が入る。事実と物語の間に解釈が入るからこそ、我々は、大切な自分や誰かの人生を何度でも気が済むまでたどり直すことができる。そう言いたいのだ。

しかしながら、さらに疑問がわく。「たどり直した後に新しくできた物語こそが100%の事実に基いている」とするなら、「たどり直す前にあった古い物語は100%の事実には基いてはいなかった」と言えるのではないか、と。

この観点で考えると、『それでも、生きてゆく』のような素晴らしいドラマは、完璧な物語が先にあり、それに合う事実(100%架空の事実)を完璧に創作したのだと言える。言い換えれば、このドラマの物語には決定的な解釈がただ1つあり、解釈に迷うことは実はほとんどないのだ。

一方、佐村河内氏の物語は、もはや100%の事実には基いていないものの、事実が0%だったとも言いがたく、そこが非常に面白いところだ。つまり、佐村河内氏の物語は解釈がいかようにも可能なのではないだろうか。

というわけで結論――

大切や自分や誰かの人生という事実を、いかなる解釈によっていかなる物語に変えるのか。そして事実を正しく解釈するにはどうすべきであり、どうすべきではないのか。佐村河内騒動はその練習問題になるのではないか。