東京永久観光

【2019 輪廻転生】

★海辺の生と死

 海辺の生と死


先日 DVD視聴した。

風の音、波の音、鳥の声、コントラストの濃い樹木と草花。土地の言葉。「これはどこか遠くの夢のような出来事だ」という感触が最初から最後まで。

なによりも、若いのに特攻隊だから死ぬよりほかにない定め、その恋人を失うよりほかにない定め、その絶望があまりにも明瞭なのに、嘘のように遠く美しい話に感じられる。空襲と防空壕に迫る自決の空気もまた同じ。しかも、あろうことか出撃は訪れず、ぷっつりと終戦。できすぎた事実の脱力感。

つまり個別性があまりに大きい生と死だろう。奄美以外のどこかではありえない、日本の戦争末期以外のいつかではありえない、空襲や特攻隊という特殊状況ぬきには語れない生と死。島尾敏雄島尾ミホを思い出さないことはありえない物語。満島ひかり永山絢斗の存在を通してのみ没入する2時間半。

しかし最後に思った。「いつか死ぬ、そのうち死ぬ」と言ってばかりいるけれど、死ぬというのは個別性においてしか現れないに決まっているということ。抽象的な死はない。抽象的な旅がないように。生と死を実感するには、ある個別の生と死を実感する以外にないだろう。この映画を見ることのように。

そしてもう1つ思うのは―― 

個別の死は苦しい。空襲も集団自決も特攻隊も、直面すれば絶望を通り越して腹立たしい狂乱以外の何ものでもない。がんの死や心臓病や脳卒中の死や地震津波による死なら それを免れるかというと、そうでもなかろう。

しかし、もし死を抽象的に捉える場合はどうだろう? 死を抽象的に捉える場合にかぎり、死を受容できるんじゃなかろうか。宗教的な死とは抽象的な死なのかもしれない。

そして養老孟司『遺言。』に書いてあったことを思い出す。私たちは、あっちのあれとこっちのあれを「ネコ」とくくり、あっちのネコとこっちのイヌを「動物」とくくる。つまり人間だけが同一性がわかる、そして同一性の階層をどんどん上っていったとき、ついに一神教の神に達するんです、と。

http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20171202/p1(『遺言。』)

http://www.umibenoseitoshi.net/