東京永久観光

【2019 輪廻転生】

人は死ねば骨になる

 


じつは先日、郷里で伯父さんが亡くなったので葬儀に参列してきた。伯母さんや長男(従兄弟)と一緒に私も骨を拾わせてもらった。

83歳の伯父さんは、しばらく寝たきりだったが最近は元気で、朝ことばを交わした直後に息をひきとったという。納棺されても、ずっと寄り添ってきた伯母さんや従兄弟には、眠っているのと何も変わらなかったことだろう。

だから、火葬センターに行ったあと骨になって出てきた伯父さんの姿は、2人にとって最後にして最大のインパクトだったように見えた。

人は死ねば骨になる。

それはもう悲しみを通り越した事実だ。長い介護と煩雑な葬儀をすべて終えた安堵もきっとあっただろう、伯母さんは、伯父さんの骨のなかに治療したばかりの歯の詰め物があるのを見つけ、少し笑った。従兄弟は「頭蓋骨の裏がどうなっているのか、見せてくれませんか、こんな時じゃないと絶対見れないので」と係の人に頼んでいた。

人は死ねば骨になる。

なぜ人は生まれ、なぜ人は死なねばならないのか。死んだらすべて終わりでいいのか。いつか必ず直面する問いなのに、だれもが知らん顔をしている。そうだ、葬儀のときくらい、もっとこの話をしてもよさそうなのに……。でも案外しない。

それは、「死は問うてもわからない。わからないから問うても仕方ない」ということを、身内の死を目の当たりにしてこそ、むしろ明白に納得するからではないか。

人は死ねば骨になる、と。

ところで、私は父も母もかなり早く亡くした。それは決定的な出来事だったと思っている。歳月が経つほど かえって重く自覚する。若いという体験も年をとるという体験も一度しかできない私たちにとって、父と母は通常かけがえがない。津波で父や母を亡くした人もいるだろう。しかし「津波で亡くなるほどひどい目にあったわけではない」とはまったく思わない。どちらも100パーセントひどい出来事だ。

ともあれ、すでに私は、母の骨を拾った。父の骨も拾った。

近親者の骨を拾うようなことは、長い人生でもそう何度もない。それでも一度でも体験した者は、死のある明白な一面を否応なく知る。私はそう思う。

もちろん、ここに書いたことはあくまで死の一面だ。「死がわかった、もう気がすんだ」というのでは全然ない。(続く)


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死のわからなさをどうにかしてしのぎたい」という話は、最近特によく書いている。
http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20130726/p1
http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20130621/p1
http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20130607/p1
http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20130421/p1