東京永久観光

【2019 輪廻転生】

言語論的回転寿司 (1)


野矢先生の講義を某所で聴いている。フレーゲラッセル、ウィトゲンシュタイン言語哲学のはじまりに関する入門編。

これはもう私にとって、大トロ、生ウニ、甘エビが並んでいるようなものだ。しかも、余人をもって代えがたい名人が目の前で握る。

思えば野矢さんの本はたくさん読んできた。そうしたら最近になってNHK爆笑問題のニッポンの教養」に登場。興味津々で見たところ「想像していたほど優しくない…」。 太田光とのやりとりではむしろ意地の悪さがピリピリ伝わり、複雑な気持ちになった。本当の人柄はどっちだ? しかし教室に現れた師は、はたして丁寧さと親切さがあふれるほどであり、まさに本の語り口そのままだった。

さて、いきなり中身の話――。フレーゲはこう考えたという。

文は、ある事実のもとで、真または偽をあらわす

これだけ書くと、まるでカリフォルニアロールか。しかし一応講義の流れに乗ってこれを耳にしたときの私は、地面がぐらっと揺れた。

われわれが世界をまず眺め、そのありようの大枠を把握していくうえで、言葉はまちがいなく根本の役割を担っていると感じるわけだが、ではそれはいかなる役割なのか。それに対するあっと驚く一撃。こんなのがあったかという独創の透視図。

師の言うとおり、ここに示されているのは「世界と言語の関係」だろう。その関係がこうすればひとつ明瞭に示せるということだ。

「野矢先生のライブでも聴きに行くか」という軽い動機だったのだが、とんでもない。心を入れ替えて取り組むことにする。(なお、野矢先生とは野矢茂樹先生のこと)

 
 *


「文はある事実のもとで真または偽をあらわす」に至るには、以下のごとき問答があった。

「言葉の意味とは何か。たとえば猫という言葉の意味は何か」
「え〜とそれは、猫という、心の中に浮かんでくる観念のことではないですか」

だれでもふつうそんなふうに思う。しかしこの見解は伝統的言語論と呼ばれ、フレーゲは「それは間違いだ」とはっきり主張したのだ。カナメとなるのは、「猫」という語は常に一定だが、「心の中に浮かんでくる猫の観念」は人によってまた時に応じてどんどん変わるということ。だからフレーゲは「言葉の意味を説明するのに、心や観念といったものを持ち出すのはやめよう」という態度に出る。

言い換えれば、フレーゲは、言語を説明するのに「語と対象」という見方を捨て、代わりに「文と事実」という見方を採用した、ということになるようだ。

もうちょっと説明すると――。われわれは、たとえばタマという「個体」に出会うのではない。猫という「一般的対象」に出会うのでもない。われわれが出会うのは、たとえば、タマが煮干しを食べている、ミケが庭を歩いている、といった「事実」のほうなのだ。(つまり、この世界は「もの」ではなく「こと」で出来ているということにもなろうか)

そもそも、言語は「語」ではなく「文」の単位で初めて役割を果たしている。(これは言われてみればその通りなのだが、われわれは大抵そんなことは忘れて言葉を使っている。それどころか、言葉について相当考えているつもりでも、これほど単純で重大なことをけっこう見落としてはいないだろうか)

こんなふうにして「文」と「事実」というキーワードが浮上してくる。ではもうひとつ。「真偽」っていったいどういうこと? 

ここでフレーゲが示す突飛な図式は、これまた天が裂けたかというほどの衝撃だ。それはまた次回。