菊地直子と高橋克也の2人が警察につかまったことから、オウム真理教のことを久しぶりにちょっと考えた。そういえば、この前の大みそかに平田信が出頭してきたことがきっかけだったのだ(ほんとうにすぐ忘れる)
もともと私は、かつての連合赤軍の人たちの無茶苦茶行動には けっこう興味があったのに対し、オウム真理教の人たちの無茶苦茶行動には あまり興味がなかった。のだが、不思議なことに、平田・菊地・高橋3氏の事件後の生活を想像することで、妙な共感の土台が出来てこなくもない。
というか、オウムの人に「信仰を捨てろ」というのは、やくざの人に「暴力をやめろ」というのに等しいよなと思う。
オウムをかばうような話をもう少しするが:
少し前にNHKが地下鉄サリン事件を振り返る番組を放送した。そのせいか、麻原彰晃が出演した「朝まで生テレビ」がユーチューブにアップされていた。
それを見たら、当時や現在の私の基準からすればどうみても頭がおかしいはずの麻原彰晃の言動よりも、それを真正面から非難する側の知識人たちの言動のほうが、なんだかさもしいかんじがしてならなかった。
オウム真理教がにわかに世の中に出てきたころ、私は郷里の福井に住んでいたので、その怪しい盛り上がりを あまり実感していなかったなとは思う。1995年の地下鉄サリン事件のときも まだ福井にいた。
さて。
殺人と信仰というのは、どちらも個人がそれを望むのをなかなか止められはしない。もちろん、私が一緒にいる社会においては、殺人を「どうぞどうぞ」と私は言わないし、殺人をする人は警察が捕まえるほうがいいとも思う。
しかし、いかなる信仰についても、私が「どうぞどうぞ」と言うかどうかは別にして、それを社会が完全に禁じることがいいわけではない。(実際に、少なくとも日本の法律ではそんなことできないはずだ)
だから、どんな信仰も差別してはいけない。しかし、どんな信仰を好きになるか嫌いになるかは個人の勝手だ。私はべつにオウム信仰が好きというほどではないが、世間の多くの人が嫌いすぎるほどには嫌いではない。要するに、オウム信仰よりもっともっと嫌いな信仰が、私にはある。
たとえば、「人は魂の修行を重ねてこそ高いステージにたどり着く」といった教義を信仰しようとする人はほとんどいないのに、「人はコミュニケーションや競争の修行を重ねてこそ高い経済ステージにたどり着く」といった教義を信仰する人は、どうしてこうも多いのか!
それにしても、久しぶりにツイートに熱が入った(上記)のが、なぜオウム信仰の話なのだろう? 偏屈者のバランス感覚だ。みんなが賛成することに反対したくなり、みんなが反対することに賛成したくなる、という性質をもった素粒子?
偏屈かどうかはともかく、そのようなバランス感覚で原発の賛成反対を眺めている人は、きっと多いことだろう。
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そう言えば、こんな本をたまたま図書館で見つけ、少し読んだ。
壮絶。
映画『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』は、リアリズムだったのだとわかった。
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