『ひとのことばの起源と進化』(池内正幸)という本に、こんな例文が出てくる。
「菜々子は隆史がごはんを食べたと思った」
これってきっと松嶋菜々子と反町隆史だね!
そうかと思えばこんな句も。
「由紀恵の姉の車」
こっちは仲間由紀恵のことかな?
それはそれとして、「菜々子は隆史がごはんを食べたと思った」がなぜそんなに重要なのか。
言葉の「回帰性」が示されているからだ。
すなわち―― 「菜々子は〜と思った」の中に「隆史がごはんを食べた」が入り込んでいる。言い換えると、「主部(隆史が)+述部(ごはんを食べた)」という組み立てが、再び同じ「主部(菜々子は)+述部(〜と思った)」という組み立ての中に入り込んでいる。「主部」「述部」という部品から出来上がった「主部+述部」というまとまり自体を、改めて1つの部品「述部」とみなしたうえで、同じ「主部+述部」というまとまりの中にはめ込んでいる、ということ。このはめ込みはいくらでも繰り返すことができ、言葉はどこまでも長くなる。
「由紀恵の姉の車」からも回帰性がうかがえる。まず部品「由紀恵」と部品「姉」を組み立てて「由紀恵の姉」を作る。作った「由紀恵の姉」を1つの部品とみなし、新たに別の部品「車」と組み立てて「由紀恵の姉の車」を作る。この操作もいくらでも繰り返すことができる。
もう1つ、こうして作られる言葉が「階層性」をもつことも重要だ。
階層性とは。「菜々子は」「隆史が」「ごはんを」「食べた」「と思った」という言葉の並びは、ただ並んでいるのではなく、「菜々子は+と思った」のレイヤーと「隆史が+ごはんを+食べた」のレイヤーが上下に重なっているということだ。つまり、言葉の要素は「リンゴ・バナナ・オレンジ・ブドウ・パイン」のように無造作に並んでいるのではない。いわば「リンゴ・人参・馬鈴薯・玉葱・バナナ」のように並んでいて、それをみて私たちは「ああこれは果物2つの間に野菜3つが入り込んでいるんだな」と整理できる。
言葉の回帰性や階層性なんて、私たちは言葉を使い始めたときから完全にわかっているので、いちいち「回帰性」とか「階層性」とか言わない。菜々子だの隆史だの人参だの馬鈴薯だのと面倒な説明を受ける必要もない。
とはいえ、言葉をこのように組み立てられるのは人間だけだということになっている。(といっても、こうした組み立てのない言葉なら他の動物にも操れるのかというと、それもあやしい。自然発生した言語はこの世のどこを探しても人間の言語しかなさそうなのだ。だから「回帰的・階層的」という指摘は、ある言語とべつの言語を比較したというより、とにかく私たちが使う言語の核心について述べたものと言うべきだろう)
この言語の回帰性(再帰性)に特に注目するのが、チョムスキーに代表される言語学者たちだ。チョムスキーは回帰性を重視するにとどまらず、「人間の言語に固有の特徴は回帰性ただ1つ」という趣旨の主張までしている。
でも私は、回帰性つまり{菜々子は(隆史がごはんを食べた)と思った}の構造がそんなに大変なことかねと、ずっと首をひねってきた。
ところが、今回この簡明な一冊『ひとのことばの起源と進化』を読み、回帰性が言語の核心だという意味が、初めて実感できた。同時に読んでいた『進化言語学の構築』(藤田耕司+岡ノ谷一夫 編)のおかげも同様に大きい。
どう実感できたのかうまく伝わるかどうかはさておき、自分の憶えとして以下に書き留める。
まず、『進化言語学の構築』には次の図が出てくる(第4章 統語演算能力と言語能力の進化/藤田耕司 より)
これらは私たちの動作を模式的に示している。Aは小さなカップを大きなカップに入れる結合の動作。BはAの動作を繰り返す動作。AとBは単純だ。ところがCは、Bと似ているようで異なる動作だという。カップ2つを結合させたものを1つのカップとみなしたうえで別の1つのカップと結合させなければならないからだ。興味深いことに、Bは野生のチンパンジーにもできるが、Cは人間にしかできないという。
CこそがAを「回帰的」に繰り返す動作なのだ。この動作はアセンブリ方式と呼ばれ、人間が進化して到達した最も複雑な操作様式と考えられているそうだ。
うすうすわかってきたことだろう。「人間がCという回帰性の動作ができるようになったのに伴い、人間の言語が回帰性を持つようになった」。そんな仮説がここに登場するわけだ。
★パンにあんを入れても「パン」
もちろん、「言語の回帰性」を本当にピシっと知りたい人は、チョムスキーの分厚い多数の著書を読むとよいのだろう。が、そんなことをしなくても、『ひとのことばの起源と進化』は、本来とても高度と思われる内容を、とても平易に説明してくれている。
おかげで私も今回かなりピシっとわかった。「言語の回帰性」は、結局のところ「併合」と「ラベリング」という2つの操作から成っているのだ。(「併合」は「結合」と同じ意味 「併合」は一方の中にもう一方が含まれてしまうので、「結合」ではない。日韓併合と同じ)
以下、「第3章 ひとに共通のことばの知識」から引用と抜粋―――
《さて、それでは、私たちは、あたまの中にあるはずのこの構造をどのようにして、どのような手段で創っているのでしょうか。何か手だてがないと、それが無意識であるにせよ、このような階層的句構造は創れないのではないでしょうか。私たちのことばの知識、それも、共通の普遍的な知識の中に、その手だてがあります。と言っても、とても簡単で単純な操作です。
(7)二つの要素(語あるいはそれまでに作られた構造など)を取ってきて、それらをひとつのまとまりにせよ。
という、何とも単純な操作がまずあります。この操作(というほどではないのですが、とにかく)の名前を併合(Marge)と言います》
さらに、併合したものにラベルを付けること、それを標示付け(Labeling)と言う。
例 {動詞,{ごはん(を),食べた}}
補足:「ごはんを食べた」は、「ごはん」という名詞と「食べた」という動詞を併合させたものだが、文の中では「ごはん」と同じ名詞の働きではなく、「食べた」と同じ動詞の働きをするので、標示付けは「動詞」になる。
《ということで、併合(7)+標示付けという操作は、すべての母語話者の脳内にある共通のことばの知識であると考えられます。これでくだんの階層的句構造が産み出されるのです。そして、ことばの階層的句構造というのは、ひとのことばにのみあるのですから、併合+標示付けはひとのことばにのみ存在するということになります》
要するに、「あん」+「パン」で「あんパン」を作れますよ、しかも「あんパン」は「あん」の仲間ではなく「パン」の仲間になりますよ、ということ。(「由紀恵」の仲間でもありませんよ)
《このように、二つの要素を適切につなげる併合という単純な操作ですが、何度も繰り返して適用していると、(略) 同じ種類のまとまりが繰り返し出てくるような階層的句構造が産み出されます。(略) 特に注意したいのは、「文」のなかに(あるいは、上に)また「文」が出てくるところです。このような構造を回帰的(recursive)構造と呼びます。また、このような特徴を回帰(recirsion)と言います。ある種類の構造が現れ、しばらくするとまた同じ種類の構造に立ち戻る(が現れる)というものです。併合+標示付けの繰り返しの適用はこういう階層的句構造を難なく創り出します。はい、特に制限を付けず自由にやっていると、回帰的階層句構造もこんな単純な操作から産み出されるのです》
《このように、併合+標示付けという操作、および、それによって生成される階層的句構造は、ひとの言語にのみ特有で、かつ、ひとの言語ならどれでもこれらを持っているというような特徴です。この意味において、これが、すべてのひとのことば(のみ)に共通の普遍的な知識の代表例となります。この併合と標示付けにより回帰的な階層的句構造も産み出されます》
《実はこれにはきりがなく、さらに(17)へと展開できます。
(17) 豊は菜々子が隆史がごはんを食べたと思ったと言った。》
……竹野内豊も登場してきたところで、引用と抜粋はおしまい。
★俺のものは俺のもの、奪ったものも俺のもの
さらに『ひとのことばの起源と進化』では、突飛だがじつにエキサイティングな仮説が出てくる。
私たちの言語が回帰性・階層性を備えたのは、私たちが財宝などを回帰的・階層的に所有するようになったことに伴ったのではないか、というのだ!
ちょっと言い換えると――
この「鏡」「剣」「玉」はもともと「俺のもの」だ。さらに、こないだ敵から奪った「毛皮」を、もとの「俺のもの」と合わせ、すべて「俺のもの」にしよう。そうそう、あいつがくれた「新巻鮭」と「丸大ハムの詰め合わせ」も「俺にもの」に加えておくとするか。
――という具合。併合とラベリングがここでも行われている。
《貴重品の所有・保管は抽象的・心的には回帰的階層的構造を為していると理解することできます》
《所有の心的・物理的操作が、言語的操作としてひとのことばの併合の直接的前駆体であると想定することができるのです》
*
これらを読みながら、確かに「人間にとって回帰性が理解できるということは、とにかく重要なんだな」という気持ちがわいてきたのだ。しかし、「回帰性のみが人間の言語を決定づける」とまで言われると、なお「どうなんだろう」という気持ちが残る。
その気持ちについては以前書いた。
◎否定や疑問こそ言語の本質ではないか(http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20090525/p1)
たとえば、私たちがあらゆることについて「肯定」か「否定」を区別できるのは、言語があってこそかもしれない。また、あらゆることについて「疑問」が持てるのも、言語があってこそかもしれない。言語の核心というなら「肯定・否定」や「疑問」の形を作れることではないか、と私は言いたいのだ。
なお、『進化言語学の構築』は、言語学・生物学・ロボット工学・コンピュータ科学などの幅広い分野の研究者がそれぞれの論を述べディスカッションもしている実に素晴らしい一冊だが、「回帰性こそが言語の核心である」というチョムスキーの主張に懐疑的な研究者もいて興味深い。ただし、チョムスキーとともに「言語の回帰性」を長年探究してきた研究者にとっては、もはや筋金入りの理論となっている。
*
一般向けの『ひとのことばの起源と進化』と、専門書っぽい『進化言語学の構築』は、どちらも非常に面白く勉強になったので、さらに書き留める予定。
たとえば、『ひとのことばの起源と進化』には、「言葉はコミュニケーションの道具として進化したとみんな思い込んでいるけど、違いますよ!」なんてことも書いてあり、これまた大変なことだ。それはまた次回。
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