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【2019 輪廻転生】

高橋源一郎のボケとツッコミ


高橋源一郎の小説。あれはつまりボケだ。正しいツッコミが誰にも思いつけない困ったボケ。それを目指してボケを徹底して磨き抜いたのかもしれない。ただ最近は、ボケをむしろ緩く鈍くすることでツッコミをよろよろと回避する大リーグボール3号のごとき戦略とも受けとれる。

では、高橋源一郎の評論(とされる文章)はどうか。たとえば『文学界』の連載「ニッポンの小説」。これまたボケが手を変え品を変え延々続く。いったいどうなるんだ、と思いきや、最後にはきっちりツッコミが入って落とし前がつく。さすが評論だ。(小説のボケはボケ自体によって落とし前はついているのだろうが)

というわけで、本当は、高橋小説のボケに対して、あるいは高橋評論のうちでもおそらく自身でもツッコミせず放っておいてあるボケ部分に対してこそ、ぜひツッコミたいのだが、それは非力で難しい。だから、高橋源一郎の自らのボケに対する自らのツッコミという、非常に限定されたものだけを、以下のように書き写すしかない。


 *


高橋源一郎は「文学のコード」ということを語っている。『文藝』06年夏号の柴田元幸によるインタビュー。題して「小説より面白いものは、この世に存在しない」。ここで高橋源一郎は自らの創作基盤を率直に明かしていくが、その核心をめぐってぽろっと出てきたキーワードが「文学のコード」だ。

「文学のコード」とは何か。いろいろな言い方をされるが、ある小説を読んだとき「いかにも小説っぽい」とか、逆に「こんなの小説じゃないだろ」とか、ついついしかし誰もが必ず思ってしまう強力な規範、というふうに捉えればいいだろう。

ただ、こうした一般論だけなら当たり障りなく漠然としている。ところが文学界06年12月号の「ニッポンの小説」でも、高橋源一郎は、思案につぐ思案の末やはり「コード」という用語にたどり着く。そこでは現代日本の小説2作品の冒頭があからさまに比較される。それによって、文学のコードとは如何なるものか、明白な構図として浮かびあがる。驚きと頷きの瞬間。

引用された二つの冒頭は作家名も作品名も記されず、私は読んでもいなかったのだが、インターネットで調べてすぐ分かった(なんてことだ)。伊藤たかみ芥川賞受賞第一作「貝からみる風景」と、中原昌也の同賞落選第一作「誰が見ても人でなし」(なんてタイトルだ)。

「貝からみる風景」は、冒頭を読んだだけで、その後の展開がほぼ予測できてしまうと、高橋源一郎は言う。たとえば「殺人とか、発狂とか、実は主人公はバイセクシャルのCIAとKGBのダブルスパイだったとか」そういうことはなく、「(絶対に)結局は「ささやかな」ことが起こり、(絶対に)結局は(ささやかな)日常が続くのである」と分かるというのだ。それに続く部分を引用。

そんなことまで、なぜだかわからないが、冒頭の文章だけで、わかってしまう。
 そんなことは、なにも書いていないにもかかわらず、読者は、それらのことを自明のものとして受け取るのである。
 ということは、冒頭の文章には、そこにある量よりも、遙かに多い「情報」が含まれていることになって、それは要するに、素晴らしい、ということになりそうだ。
 だが、そうではない。
 現にそこに書かれている以外のことが「情報」となって、その文章を背後から支えている、ということは、その文章が(ひいては、小説が)独立してはいない、ということではないだろうか。
 誤解を避けるためにいうが、ぼくは、それがいけない、といっているのではない。そのように書かれてきたさくさんの傑作があったことを、十分に承知し、理解した上で、「独立」していない、と感じるのだ。
 それが「独立」していないと感じられるのは、「権威の象徴でもあった文学」というものが、そもそも「権威」に拠って、成立しているものだからだ

ただし、こうした小説を支えている文学観は、むしろありがたいものだと、皮肉と本音を織り交ぜたように続ける。

…「人生」などの問題について悩んだ時、「文学」が、ニコニコ揉み手をしながら、現れる。そして、「まあ『人生』とか、『青春』とか、そういう方面のことだったら、専門家であるぼくたちに任せてね」といってくれるのである。「あなたたちの代わりに経験してあげるから、ついでに、考えてあげるから」と

一方、中原昌也作品の冒頭はどう感じられるか。こちらも少しだけ引用。

とりあえず、はっきりしないまま、読み進んでいくと、この作者、というか主人公は、妻が失踪したとか、謎の言葉を残したとか、いろいろ重要そうなことを書いていたはずなのに、そんなことはどうでもよくなって、その時、頭に浮かんでいたことを脈絡なく、考えてばかりいるのである。
 要するに、なにが起こっているのかさっぱりわからない。そればかりか、なにかが起こっているのかどうかさえ、わからない。
 では、そんなのものに付き合っている暇はない(なにしろ、「小説ではない」らしいのだから。どうせ付き合うなら、充実した時間を過ごさせてくれる、豊かな気分にさせてくれる、そういうものを相手にしていたいから)、こんなヘンテコな「小説」(?)はうっちゃっておけ、と思っても、(ぼくは)目を離すことができない。
 なぜなら、ここでは、なにが起こるのか、前もってどんな予測もたてられず、だから、全神経を張り詰め、緊張を保持しつつ、待機していなければならない(いや、そうやって読まなければならない)からだ

そうして、この二つの冒頭を交互に読んでいくうちに、自分が読んでいるのが小説だかなんだか分からなくなってくるという。

そうだ。わからなくなってくるのだ。それ以前には、わかっていたような気がしていたのに、読めば読むほどわからなくなる。わからなくなるだけではない、4の文章(*中原作品の冒頭)が3の文章(*伊藤作品の冒頭)をとりこんでいくような気がしてくる。つまり、ふたつの文章を読んでいるのに、4の文章だけを読んでいるような気がしてくる。
 それは、いったいなぜだろう。
 ぼくは、4の文章が、3より強くて広いからだ、と考える。3の文章は、4の文章が生きている世界の中に含まれている。だが、4の文章が生きている世界は、3の文章の中には存在しない。だから、4の文章は、ほとんどすべての「人生」より大きくて、広い世界からやって来たことになるのではないか

ちなみに、この連載は目下 小島信夫の『残光』がテーマだと宣言されている。そして、あの『残光』の前では、中原昌也のこの文章ですら、やはり特定のコードに従って書かれているように見える、と結ぶのだ。さらに、次の問いを投げかけて今回は終わる。

では、それを前に置くとき、『残光』が依拠するコードが露(*あらわと読むべきだろう)に見えてくるような文章は存在するだろうか。もし存在しえないとするなら、我々が『残光』で見出すのは、「最後の文章」ということになるのだろうか

…………。

さてさて、ではこの「文学のコード」に作家はいかなる方針で対処すればよいのか。その理想と現実が、文藝のインタビューでは切々と語られている。

高橋源一郎は、文学のコードを全否定することを原理主義と呼び、二葉亭四迷中原昌也をそこに位置づける。しかし、原理主義は正しいけれど、何も生み出さないとも言う。そして、原理的な自由を、不完全な写像であれ現実の自由として実現することこそが、文学の仕事だと考え、その理想型としてブコウスキーの『パルプ』を唯一評価する。

こうしたクリアな構図を描くことで、話は非常に分かりやすくなる。しかしそれにとどまらず高橋源一郎は、二葉亭と中原の姿勢にも、ブコウスキーの成果にも、愛着と信頼を全開にしている。その肯定の強さが感動的だった。そのあたりを引用しておく。

まず二葉亭四迷中原昌也について。

小説で書くことがない、というのは作家が言わない本当のことの一つ、というかもっとも大きな一つです。「あいつの作品は本当はつまらないんだけれども、みんなが褒めているからいいか」とか、作家が言わないことはたくさんある。本当のことを言うのが文学だというのは、実は全くの嘘なんですね。でも、よく考えてみたら、これは文学に限ったことではなくて、この世界の構造は基本的に「本当のことは言わない」ということなのかもしれない。つまり「コード」というのは、そういうことですよね

ところが、中には本当のことを言ってしまうやつがいる。書くことがないとか、文学は本当のことを言っていないとか。しかし、そう正直に書いてしまうことが重要なのではなく、彼らが世界そのものをそういう正直な目で見ていることが大切だと思うんです。つまり、彼らが書くものの中に、そういう世界の構造そのものが見えてきてしまう。彼らには、本質的なことしか見えない、だから話が飛ぶんですね。二葉亭四迷の作品でも「おれは書くことがない」と言ったあとに、なんの脈絡もなく犬の話を書いている。そして、それがすごく面白い。犬という対象に溺れたりしないで、溺れている自分を客観的に見るとか、本当のことは誰も言っていないという視点が書いているもの全部に入っているんですね。中原君もそうだと思うんです。文学という狭い世界の話ではなくて、世界全体がそういうふうに見えてしまう、その目が、僕は面白いと思うんです。その態度というか、姿勢が、一貫していてぶれない、そんな人間が見ている視野、その視野から見えた世界は、通常我々が見ている世界とは違っている。これはやっぱり彼らの特異なところです

次はブコウスキー『パルプ』について。

あの作品の、柴田訳のブコウスキーは僕の文章の理想像です。柴田さんは翻訳なさったからわかると思いますが、あの文章は、間違っているというか、おかしいというか、コードと言えば大衆雑誌のコードに一応従っているんですけれども、でもあの文章を従っているふりをしているだけで、いかなるコードにも従っていないように見えます

タランティーノの映画『パルプ・フィクション』は完全にコードを遊んでいるが)《ブコウスキーのは遊んでさえいない》《ブコウスキーは、どうすれば知らないように見えるか、本能的に知っていると思うんです。それは、要するにきわめてインテレクチュアルな作者だということです。知らないようなふりをするなんて、まだダメです。それがあの人はできてしまう。あれが、小説の文章として、僕の理想型なんです。美文ではない。だが、ある意味すごく美しい。物語の進行が全部偶然というか、最初からすべてでたらめなんですけれども、あまりに完璧にでたらめなので、「美しい」と言うしかない

原理主義者の考える自由は完全な一〇〇%の自由じゃないですか。でも現実の自由は、ブコウスキーみたいなものだと思うんですよね。コードに則った小説とは、最初のところを読んだだけで、最後まで道ができていることがわかってしまうようなものです。しかし、現実とか人生というものは、最初から道ができているわけじゃない。それは、酔っ払いが歩いているようなもので、「偶然ある事件が起こったので結末が変わりました」というようにいい加減なものかもしれない。自由という抽象概念は現実という三次元に投影すると、みっともないものになってしまう。僕はそれでいいと思うんです

これに絡んで、高橋源一郎自身の戦略も述べている。

僕の願望ははっきりしていて、ここ何年か、いかに下手な、ダメとしか思えない形の文章で小説が書けないかと、ずっと考えています。もちろんいま「下手な」とか「ダメな」といいましたが、美しいものについては形があります。でも、ものすごく極端なことを言うと「下手な」「ダメな」というものには形がない、というか、それは要するにコードに則っていないものなんですね。美しいものは、だいたいコードに従っていると思うんです

いっそう込み入った逡巡も。

繰り返しになりますが、僕自身は文学に、というか小説に「ほんとう」を望みます。そのように書きもします。しかし、それが、作品の中で、実現するとは思いません。「ほんとう」の看板を掲げた「嘘」でいいのです。極端なことを言うとそれは一種の八百長です。でもフィクションは非常に高度な八百長であるべきです。現代詩はプロレスではなくて真剣勝負をやろうとして、怪我をしたようなものです。プロレスは興業ですよね。本気でやったのでは、全員怪我をしてしまう。とはいえ、僕は怪我するから真剣勝負をするなとも言わないし、単なる興業でいいとも思わないのですが

なお、これら文学界の連載と文藝のインタビューは「文学のコード」をめぐって直結している、と明示されているわけではない。念のため。

 
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ほとんど紹介だけで終わってしまった。私の反応もちょっとだけ。

「自由という抽象概念は現実という三次元に投影すると、みっともないものになってしまう。僕はそれでいいと思う」というところを読んで、「そうだやっぱり小説は旅行に似ている」と膝を打った。抽象的な観光なんて存在しない。抽象的な読書が存在しないようにね。旅先をどこか一つ選び飛行機もどれか一つに乗らなければ、始まらない。それはいつも陳腐でとても面倒だ。それでも100%の旅行を私は求めている。

美しいものはたいていコードに従っているが、下手なものダメなものはコードを超えているという指摘。そこからふと、最近話題の『働くおっさん劇場』を思い出した。http://blogs.dion.ne.jp/mmbon/archives/4366279.html


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さて、最初のところで評論はいくらボケても最後にちゃんとツッコミがあるから安心、みたいなことを書いた。しかしそう安心してもいられない。

というのも、文藝06年秋号(夏号でなく秋号)では、高橋源一郎保坂和志と対談するなかで、「ニッポンの小説」はいずれ小説に離陸させるつもりだったが、なかなか離陸しないみたいなことを言っているからだ(正確な引用ではない。以下も同様)。

さらに面白いことが発見される。「ニッポンの小説」文中の「私」は、小説作品の「私」とは違い、どうしても筆者である私(高橋源一郎)と同一にしかなれないという。たしかにそうだ。というか、文中で使われる一人称が筆者を示していないなんてことは、たとえば新聞記事や研究論文やビジネス文書ならまずありえない。こういうブログも大抵そうだろう。くわえて、書いてあることが本当でも嘘でもよいというのも、小説以外ではなかなか許容されない。そうしたところにこそ、小説という謎を解明する糸口があるのかもしれない。

しかし、いっそう驚愕すべき法則がまだ隠されている。小島信夫の作品なども参照しつつ、評論であれ何であれ文章はひたすら長くなると、なんといつのまにか小説に変身してしまうというのだ。「ニッポンの小説」はそれを目指す、といった趣旨。


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最後に一言。高橋源一郎保坂和志も、いくらボケてみえようが実はどこまでも念入りに精密にツッコミを入れてしまう評論しか書かない人だと思う。また「小説は論理的ではない」というようなことを二人そろってしきりに主張するが、両者の小説はともに、なんというか結局、特異ではあっても厳格で明確に筋道の通った小説であるに違いない、とも思う。