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【2019 輪廻転生】

★マンゴーと手榴弾/岸政彦

(11月19日)

https://twitter.com/sociologbook/status/1196755503457554432

この少し懐かしい歌は「俺の俺の俺の話を聞け〜」と叫ぶのだが、実は週末この人の『マンゴーと手榴弾』を読んでいて、どうしても浮かんできたフレーズが「人の人の人の話を聞け〜」だった。リツイート1つにもいろいろな時間の流れが折り畳まれております。

 

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(11月30日)

岸政彦『マンゴーと手榴弾』感想。

むかし「小説に何が書いてあるか」とは別に「小説は何をしているのか」という問いがあることを知った。この本はそれに似た不思議な問いに気づかせる。「人が語る・人が聞く」その内容だけでなく、そもそも「それっていったい何をしていることなんだ?」

さらに基本的な感想としては、どうもこれまで読んだことがないような本。書き手の個性なのかというと、それもあるかもしれないが、それより実は、単に主張(理論)が新しい、書いていく展開(その実践のようなもの)が新しい、ということなのではないか。少なくとも私にとっては。

いや何の本かは冒頭から明らかなのだ。《本書は、生活史調査の方法論と理論について書かれた本である》 このとおりの本なら面白いはずがないと言いたくなるが、案外このとおりの本だからこそ面白いのだ、おかしなことに。

さて「プリンとクワガタ」の章では、人にインタビューして出てきた短い語りの1つ1つが、とてつもなく広く深いものを含んでいることを、多くの具体例で指摘していく。ただの人の話を大げさに持ち上げすぎなのでは? いやそうではない、人の語りとは本来とても大げさなものの詰め合わせなのだ。

すなわち…《奇妙なほど具体的なディテールは、かえってその実在性を伝える。唐突にあらわれる松原智恵子ブックオフ、サラダパック、とちの実は、それが唐突であればあるほど、書き手の意図を超えて、それが実際にあったこと、なにか実在するものに直接関係しているということを、伝えてくる。》

《まず、それは世界につながっている。その意味でそれらはすべて、実在しているのである》《そして、それらはこの世界がどうなっているか、人間の行為や相互行為というものがどういうものであるかについての、かなり一般的な知識をもたらしてくれる》

コピペした主張のようで、しかしこの本をまじめに読んでいる私には、この大げさな(普遍性と自信に満ちた)主張が「いやほんとだね」と実感できる。ある映画のある奇妙なシーンが忘れられない、そのわけがふっと解き明かされたときの思いに近い。私にとって大切なキーワードは「実在性」だと思う。

なかでも、夫のDVにみまわれている女性の、いろいろあって飼っているクワガタをめぐる話は、純文学誌にかれこれ100年近くも書き継がれた、みすぼらしく切ないお話のプロトタイプみたいでもあるが、わざわざ架空の話を作るから飽きられるのであり、実在の人の実在の体験ならまったく違う光を放つ。

そしてさらなるポイントは、こうした語っている内容と、それを語っている行為そのものは、再帰的に一体化しているんです、といった洞察が、この章もしくはこの本の勘所ではないかと私は思う。

《私たちがディテールを書くのは、「それを通じて」なにかを理解しようとしてのことではない。私たちがディテールを書くことそのものが、なにかの理解なのである》p.138

私たちは、ツイートを読んだり書いたりすることを通して人の思考や人生を理解しているのではなく、ツイートを読んだり書いたりすることそのものが、人の思考や人生そのものなのである。たぶん。

 

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(追記 12月5日)

この本は社会学における生活史調査というものの理論と実践をまとめているということだが、とりわけ「鉤括弧を外すこと」という章は、きっちりした理論が展開されていると思った。

具体的には、ある被差別部落出身者が「差別された経験は全然ありません」と言ったことについて、「語り手は現実のほんとうの姿が理解できていない」と解釈すべきか、「少なくともその語り手はほんとうに差別をされたことがない」と解釈すべきか、という問いがまず示され、著者はこのどちらでもない捉え方を新たに提示するという形で展開される。

 

付箋した箇所を1つだけ引用しておく。上記の焦点を踏まえつつ、意味をよく探りよくかみしめたい。

《語りと実在とを完全に分離してしまうと、私たちは実在について語る回路をすべて断たれてしまう。(略)私たちは、たしかに物語をつかって世界を語る。物語で世界をつくりあげている、とさえ言える。しかし私たちは、物語「だけ」を語ることはできない。たとえ虚構の語りであっても、それは常に「何かについての」物語である。私たちは、枠組みと内容を分離することはできないのだ》

 

なお、この理論はデイヴィドソンの言語の捉え方を下敷きにしている。デイヴィドソンは昔ちょっと読んだので「へえ」と思った。さてデイヴィドソンは何を主張しているか。私が理解したポイントを言うなら「それが言語であるかぎり翻訳はどうにかできるよ」という主張だろう。

さらにデイヴィドソンは、同書「はじめに」でも以下のように参照される。ツボはそのあたりにあると思える。

《それでは、「分かりあう」「理解する」ということは、どのようなことなのだろうか。それは、複数の異なった概念枠や世界観が一挙に融合することではなく、細かな言葉を果てしなくやりとりしながら、お互いがもつその場の「当座理論」を相互に微調整していくプロセスである》

《ストーリーというものは存在しない。すくなくとも、一部の社会学者が考えてきたような意味での、私たちと世界を隔てるものとしての、あるいは、私たちと世界を媒介するものとしての、ストーリーなるものは、存在しない。

 デイヴィドソンは、私たちは「目を通して」世界を見るのではなく、「目で」見るのだ、と述べている。同時に、「言語を通して」世界を知るのではなく、「言語で」世界を知るのだ。(略)世界と切り離された「ストーリー」というものを「使って」なにごとかをなしたわけではない。ただ、そういうことがあったのだ、ということを、彼女たちは私たちに伝えたのである》

語られた言葉は何かの媒介ではないということになろう。語られた言葉こそが「何かそのもの」なのだ。

 

「マンゴーと手榴弾」「海の小麦粉」は、こうした理論の実践編とみてよいのかもしれない。結論は明示されないかわりに、具体的な事物やシーンが鮮やかな印象を残す。なぜか。そこで語られたマンゴーや小麦粉にはいろいろなものが「折り畳まれて」いるからだ。人がなにかを必死で語るとき、そこにはどうしたって、歴史や社会が抱えていた事実や善悪、個人や共同体が味わってきた幸福や艱難、そういうものが織り込まれないわけがない。

 

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