東京永久観光

【2019 輪廻転生】

面白くなければ「面白くない」


古い話になるが、27時間テレビでは極楽トンボの加藤が律義にマラソンをし、想定内か想定外かどっちでもいい気分のなか番組終了までに局へ到着できず、代わりにかどうか知らないが加藤の義父である深野さんがなぜかフィナーレを飾っていたのが、とりわけ印象的だった。だからやっぱり24時間テレビ杉田かおるが律義にマラソンをしているのはやっぱり壮観。べつに見ないのだけれど、テレビのチャンネル移動中にそのくらいのことは感じる。

というわけで、冬ソナ最終回もオリンピックの自転車もNHKBSの映画も終わって、さすがにもう寝ようかという最終のチャンネル移動中、24時間テレビではお笑いタレントが集合してワイワイやっている場面だった。

巨大な先輩の姿を若手に語り継ぐという趣向。ビートたけしの偉大さは、テレビで「臨時ニュース」テロップを過去4回も表示させたところにある、などと浅草キッドが言う。そのたけしは、飲食店などで若手の芸人が来ているとわかると、見ず知らずであってもそっと勘定をすませてやるのだ、といった裏話に、へえと感動する。

でもここでぜひ紹介したいのは、その後のダウンタウンにまつわるエピソード。語り手として板尾、ほんこん、山崎の3人が出てきた。ほんこんの耳たぶを浜田が2時間くらいずっといじりっぱなしでキャッキャキャッキャ笑っているという話もすごかったが、なるほどそうかと興味を引かれたのは、板尾がさらっと喋ったこと。ダウンタウンとのつきあいでは、松本浜田ともに酒を飲まないこともあり、みんなで喫茶店などに行ってただ延々ダベって過ごすというのだ。わざわざどこかへ出掛けたりお金をかけて特別なことをしたりはしないらしい。「自分らは基本的にトークやから」と板尾は言う。

ただ喋りあうという、それだけを材料に、それだけを手段に、どこまでも面白がっていくことが、面白がってみることができる。それを最もよく体現している点が、松本を中心にしたこの集団の特異性なのかもしれないと思った。

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ところで、お笑いというのはまさに「笑い」という生理的な反応を伴う。だから嘘はつけない。とにかく笑えれば「面白い」のだし、笑えなければ「面白くない」。芸人によって面白さは多彩であり、どう面白いのか説明しにくくて悩むことはあるものの(若手芸人の名をどう区別して覚えるかの悩みもある)、「笑えた」かどうかの判定に悩む必要はない。

そのあたり、小説や映画ではちょっと事情が違う。同じ作品について、さっぱり面白くなかった気がするかと思えば、ものすごく面白かった気もする。だれかが「面白い」と言うとそういう気がしてくることも、正直ある。その面白さを説明できないだけでなく、面白かったのかどうか自体が明瞭とは言えないのだ。お笑いの面白さの証しが「ワハハ」であるように、小説が「面白い」ときにも、なにか身体が「○○○」と反応すればいいのにと思う。あるいは難しい本を読んでいて、「わかったのか」「わからなかったのか」自体がわかりかねることは多い。これも「わかった」ときだけ「△△△」と顔の筋肉や声帯が動いてくれれば、わかりやすいのに。

ただそうした場合、たとえば夏目漱石村上春樹舞城王太郎がそれぞれ面白いとしても、いずれもかなり固有の面白さであろうに、反応としては一律「○○○」になるのだとしたら、それはそれで腑に落ちない。いやむしろ逆に、お笑いならいくら趣のちがう芸人でも「ワハハ」という身体の反応は一緒になっているわけで、そっちがそもそも謎なのだとも言える。

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で、その難しい本の話になるが、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』を「幸福に生きよ!」に狙いを定めた著作として読み直すことが可能だと、野矢茂樹も述べている(岩波文庫の訳者解説)。自分がこうして受けとめている世界がどのようなものであるかを正確に知ることとは無関係に、自分は幸福であることができるし、幸福でないこともできる。そして、幸福がどういうものであるかを語ることは不可能だが、幸福であること自体のなかにそれが示されることは可能だ。―といったようなことになる。

この「幸せに生きよ」というのを「面白く生きよ」というふうに言い換えてみると、ウィトゲンシュタインダウンタウン両者の境地が少しわかってくる気がしないでもない。いやしかし、「△△△」という反応が起こらないので、やっぱり全然わかっていないのかもしれない。

《私の世界は「笑う意志」に満たされなければならない。事実を経験し、そこからさまざまな思考へと飛躍していくだけでなく、その世界を積極的に引き受けていこうとする、その意志である。どのような世界であれ、笑う意志に満たされうる。そしてどのような世界であれ、笑う意志を失いうる。》(これは野矢の解説の一節だが、ためしに「生きる」を「笑う」に換えた)

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ついでながら、お笑いを「笑い」で測るがごとく、経済とはお金の量で測るものに他ならないから、「稼ぐが勝ち」(参照)が真理であることは、《侵しがたく決定的であると思われる》。ウィトゲンシュタインさんなら「これで経済という問題もその本質において最終的に解決された」くらい言うだろう。とはいえ、彼はさらにこう書く。《…本書の価値の第二の側面は、これらの問題の解決によって、いかにわずかなことしか為されなかったかを示している点にある》。

しかしまあ、この言い草は、崇高な教典のようでもあるが、インチキ宗教の負け惜しみのようでもある。ウィトゲンシュタインに帰依するのもいいが、「幸福とはお金によってだけは語りうる、測りうる」と宗旨替えするのも、21世紀の日本人にはふさわしいのかもしれない。あるいは「幸せに生きるとは、ひょっとして、笑って生きるということのうちに示されているということなのでは?」とか、お笑い好きテレビ中毒日本人として解釈するのも悪くない。