石戸諭の多層的なルポ「沖縄ラプソディ」(Newsweek 2.26)を読んだ。
辺野古や沖縄のことを、私としてはこれまでになく真面目に知り考える機会になった。賛成派か反対派か(あるいは本当は無関心か)すぐに透けてしまうような多くの記事とは、書き手のスタンスが明らかに異なっていたからだろう。
《「どのような立場で取材をしているのか?」「当事者に寄り添ってほしい」という声を聞く。問いに対する私の答えは、「自分は歴史の当事者」として考えているというものだ》
――長い記事をどうしても最後までたどらずにいられなかったのは、こういうところに共感したからかもしれない。
https://twitter.com/hashtag/%E6%B2%96%E7%B8%84%E3%83%A9%E3%83%97%E3%82%BD%E3%83%87%E3%82%A3?src=hash
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さてさて。辺野古移設は進めるべきか止めるべきか―― こうなったら人工知能にでも決めてもらったらどうか。こんなことを言うのは、「人間の個人の強い思いや人間の集団の大きい思いであれば、それが最も賢い答である」などとは、近ごろあまり感じられなくなってしまったからだ。
つまり、「辺野古への基地移設は、私の幸福や沖縄の幸福や日本の幸福や世界の幸福にとって、益になりますか、害になりますか」。これに対する最適解は、そもそも、人間であれ人工知能であれ、ただ冷静に思考してこそ得られる類のものだろう。
ただし、そのような冷静な思考による最適解によって、私の思いや沖縄のだれかの思いや日本のだれかの思いや世界のだれかの思いや石戸諭のルポが伝える多様な思いは、考慮されない。ひょっとしたら考慮されるべきでもないだろう。すなわち「語りえないものについては沈黙をしなければならない」
とはいえ、ここで忘れてはいけない。「語りえないものについては沈黙をしなければならない」(論理哲学論考)は、「語りえないもの」のほうが世界や生の本質である、そんなこたあ当たりめえだろう! というのがウィトゲンシュタインのスタンスだったと考えられることを。
誤解のないように補足:「語りえるもの」=人工知能が得意かもしれない辺野古移設に関する最適解。「語りえないもの」=「辺野古移設をめぐる私や沖縄や日本や世界の人たちのさまざまな思い」
しかしながら。「もうそろそろ、課題によっては、トランプや習近平や与党や野党なんかより、人工知能に任せたほうが、いいんじゃないの」 これは最悪の思いつきでもないのではないか。
もう1つ大事な補足。「語りきれぬものは、語り続けなければならない」と野矢茂樹さんはいわば最終的なスタンスとして述べている(『論理哲学論考』を読む)