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【2019 輪廻転生】

知のトップランナー50人の美しいセオリー(現代思想 臨時創刊号)

 現代思想 2017年3月臨時増刊号 総特集◎知のトップランナー50人の美しいセオリー


一昨日ふらっと本屋に入ったら現代思想の臨時増刊号『知のトップランナー50人の美しいセオリー』というのがあった。50人のラインナップの魅力に抗えず買った。この雑誌が通常イメージさせる人文系学者がほぼ見当たらないところが特に魅力的だった。

布団に入り、冒頭の養老孟司さんの文章を読み始めると、心地よく眠りに落ちた。4時間半くらいで目があいて、こんどは飯田隆さんの文章を読み始めると、眠りは著しく覚めてしまった。

飯田隆さんが書くのはどうやら―― <言語が論理学に立脚しているならば、「この世界がいかなるものであるか」を、言語はスカッと言い切れるはずだ>という妄想は、まず裏切られるにきまっているのに、なぜか私も多くの言語哲学者もその妄想に惹かれたまま、もう100年近く過ぎたよね(主旨)

とりわけ目が覚めたのは、次のくだり。《美しくエレガントな哲学的理論ということで私がまっさきに思い出すのは、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』である。もちろん、ウィトゲンシュタインがそこで理論を提示していると考えることが、この書物の誤った解釈であることは、百も承知である。おどろくべきことは、いくら著者の意図に反しようとも、このテキストから、言語をその一部として含む世界全体についての理論を読み取ることができるということである。》(p187-188)

なかんずく、それが「この書物の誤った解釈である」というくだり、それでも「いくら著者(ウィトゲンシュタイン)の意図に反しようとも」というくだりに、私としては歴史的覚醒をおぼえた。ちなみに歴史的とは「なんど間違いを犯してなんど反省しても間違いをまた繰り返す」という意味だ。

それはそうと、私は飯田隆さんの市民向けの講義を実際に一度聞いたことがある。しかし、だからといってそれが何だというのだろう。そんなことは、「論理学から形而上学を引き出す」という今回の飯田先生の論のタイトルとは、あまりにも無縁のことだ。

どういうことかというと、「私は飯田隆さんの市民向けの講義を実際に一度聞いたことがある」などという記述を、これから私が自分の体験ないしは言語の一例として勝手にどれほどこねくりまわそうとも、言語哲学的・論理学的・形而上学的には、まったく意味がないということ。

それでもなお思う。「私は飯田隆さんの市民向けの講義を実際に一度聞いたことがある」ということや、それを今日ここに書いたことは、私の生涯にとっては何より重要で、なぜ重要かというと、それが私にとって「世界がいかなるものであるか」の核心に関わるからであるような気がする。

つまり…。つまり、何が言いたいのだろう。(結論は次)

「私は飯田隆さんの市民向けの講義を実際に一度聞いたことがある」といった記述が「世界がいかなるものであるか」の核心に関わるという直感が正しいならば、それを説明するのは、「体験とは何か」の理論だけでなく、やっぱり「言語とは分析哲学的に何か」の理論でもあるのではないか。

……いや、その結論は、完全に誤っている。しかも明瞭に誤っているのではなく漠然と誤っている。(まるで私の生涯のようだ)

それでも一言だけ言うなら、美しいセオリーは停止したまま機能するが、美しい人生は進行していくなかで浮上する。たぶんそうだ。美しくない人生もそうだ。