東京永久観光

【2019 輪廻転生】

夏バテの果て


このところ舞城小説をけっこう集中して読んでいた。だがその特異な感触は、やっぱり尻尾がつかめない。感想をまとめようとしてもすぐ煮詰まってしまう。たぶん東京で真夏日が続いているせいだな。と、そうこうしているうちに40日間! そうこうしているうちに、芥川賞候補になった『好き好き大好き超愛してる。』も書籍になった。ファウスト創刊号に載った「ドリルホール・イン・マイ・ブレイン」も収録されているらしい。というわけで、以下はまるきり中途半端で先行き不安だが、いったん外気に当てよう――。

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ドリルホール・イン・マイ・ブレイン」の冒頭、語り手の「俺」は頭蓋に金属ドライバーを突き刺される。半死半生の「俺」の前に次のような光景が広がっていく。

《それは白くて大きくて眩しい花だった。葉っぱがなくて花びらだけで、でもめしべやおしべみたいな突起があった。その花は動いて膨らんで増えた。泡立つみたいにモコモコ新しい花が咲いて開いて膨らんだ。俺の目の前、足元、血まみれの床の上に湧き立つその踊る花は俺を取り囲んで俺を塞いで俺を飲み込んだ。花からは夏の雨の匂いがした。花びらは実際にしっとりと濡れていて、俺の肩の上、首筋、鎖骨にそっと触れたときに、俺をゆっくりと舐めた。目を瞑っていても花びらが眩しくて、俺の視界は明るかった。》

ある種のドラッグがもたらす鮮やかな幻覚を忠実に描写していったら、こんな風になるのだろうか。そう考えてハタと気づいた。舞城王太郎の小説を読む感触とは、もしや幻覚に似ているのではないかと。形容しかねていたその奇妙さ強烈さを、たとえば「言語中毒」とでも呼んでみてはどうかと。

よく知られている通り、五感による外界の知覚は、ことごとく脳神経系の反応に随伴している。反応をコントロールするのは、つまるところ脳内の化学物質だ。そこが乱れれば五感も乱れる。逆に、同じ作用をもつ薬物を注入すれば脳は同じように反応し、実際には無いものが有るようにも感じられる。こうした脳の障害やドラッグの服用で起こる幻覚は、通常の知覚と原理的には区別がつかないという。花の色や雨の匂いがそこに感知されるなら、それは現実かどうかに関わらず同じようにリアルというわけだ。

「ドリルホール」では、福井県西暁町に住む加藤秀昭がまず「俺」として語り出す。やがて、「俺」の脳に差し込まれたドライバーを捻ることで、「僕」という語り手が出現する。「僕」は村木誠で東京都調布市に住んでいる。ところが「僕」の体験や記憶は、「俺」にもまったくリアルに感じられる。調布および村木は自分の脳内にある世界および人格なのだと「俺」は解釈する。ドライバーで頭に穿たれた穴を裏返すと、「俺」の脳の内部が調布の世界として出現する、という構造でもあるようだ。そこでは穴のへこみが鉄塔という出っぱりに転じているのも面白い。さてそれ以降の出来事は調布の村木の身に起こっていると考えられる。それを「俺」と「僕」が頻繁に切り替わりながら語っていく。舞城小説の常として突飛すぎる出来事ばかりだが、いずれも「僕」にはリアルな現実であり、「俺」にはリアルな幻覚ということになろう。

こうした現実と幻覚の交錯はこの小説全体を覆っていて、いかにも目を眩まされる。しかし舞城小説を「幻覚」と形容したのは、別のところに焦点がある。

私がふと拘ってしまったのは、こうした幻覚の叙述と現実の叙述とが、なにも別様の文字や文章で出来ているわけではないという愚直な事実だ。いずれのページも書かれた言語として区別できない。したがって、読むという体験そのものは同一でありうる。ではそもそも小説を読むという体験のリアルさは、現実と呼ぶべきなのか、幻覚べきなのか。

でもこの問いはナンセンスか。なぜなら「俺は白い花を見た」という文章を読むとき、現実の白い花も幻覚の白い花もどちらも見えないのだから。それはただ白い花を想像する体験に近い。正常な知覚(現実)でも異常な知覚(幻覚)でもない。それでも、舞城小説を「幻覚」と形容したいのは、読んで巻き起こる想像がどうも正常な反応におもえず、薬物の作用で不自然に引き起こされたかのように感じられるということだ。

薬物があるとしたら、小説として書かれた言語がそうだとみなすしかないだろう。小説を読むときは、たとえば「俺は白い花を見た」という言語が直接そして必ず作用してくる。この点こそ、小説を読む体験が、なにかを想像するという一般的な体験と完全に一致しないところだ。しかし、あまりに自明だが、あらゆる小説が言語で出来ている。それなのに舞城小説だけを「幻覚」と感じるのはなぜか。おそらく他の多くの小説を読んで巻き起こる想像が、あたかも自然な作用であり、それを巻き起こす言語が「現実」であると感じられることの裏返しだろう。それはすでに述べたとおり、他の多くの小説の内容が現実的だという意味ではない。問題は、小説が読み手に巻き起こす反応の質の違いだ。

ところで、冒頭に引用した白い花の光景は、脳の異変による幻覚だと「俺」はすぐ気づく。同時に、脳をいじれば自らの知覚が変化すること、ドライバーを捻ることでそれが自在にコントロールできることを「俺」は知る。

《でもここに一つの例と方法があったわけだ。完璧な表現というものが存在するのだ。まずプラスドライバーを、死なない絶妙さで頭にガチーンと突っ込む。》

これは、小説という文章のコントロールについて述懐しているようでもある。外界ではなく脳内、現実ではなく言語、内容ではなく表現、そこへ直接アクセスしそれを直接コントルールすることで、あたかもドラッグ中毒に似たリアルを一気に生じさせる。そんな方法論を暗に示しているかのように読めたのだ。

(続かないかも…)

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好き好き大好き超気持ちE。」じゃなくて、「好き好き大好き超愛してる。」について。

ストーリーが一貫する章(A)と、それに関連せずそれぞれ独立した章(B,C,D)が、交互に配置された構成(BACADA)になっている。これがABACADAなら音楽でいうロンド形式じゃないか。だったら、繰り返されるAと挿入されるB,C,Dがまったく異なる旋律であっても別にいい、などと納得してみる。

それとも、Aという主題があって、それを独自の解釈でそれぞれ変奏したのがB,C,Dなのか。で、その主題とは「愛する者の苦しみを自らの苦しみにできるのか」「その者が死んでも永遠に愛することはできるのか」といったナイーブという形容がぴったりの問いかけにも見える。または、単純に「小説を書くという祈りで奇跡を起こそう」が主題であり、それを「小説を書くという祈り」自体の実践として展開した、と言いくるめることもできそうだ。一言でいえば、それぞれ「恋愛中毒」あるいは「言語中毒」だが、私には後者の主題のほうがまだ好ましく感じられる。

しかしそうではなくて実は、C章「佐々木妙子」こそが全体を解きあかす鍵なのではあるまいか。そこで講じられ演じられる夢というからくりを作品全体に無理やり当てはめれば、一つの面白い夢がバラバラに飛び散ったものが6つの章なのだ。しかしどれも壊れたり荒らされたりしているので、だれかが夢を直していかねばならない。書くことと読むことのどちらもが、夢を壊す作業であり夢を直す作業でもある、のかもしれない。

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