東京永久観光

【2019 輪廻転生】

放射能のかわりに蒸気が漏れた?


福井県美浜町にある関西電力原子力発電所で、タービン側の配管が破裂して高温の蒸気が大量に噴出し、作業員のなんと4人もが全身に火傷を負って死亡してしまった(ほか2人が重体)。

日本の原発事故として史上最悪とも報道されている。もちろん99年に東海村の臨界事故で死者が出たのは記憶に新しいし、原発が集中する福井県では、悪名高い高速増殖炉もんじゅでナトリウム漏れという事態が95年に起こっている。しかし今回はそれらと違って、電力供給の柱として実質的に稼働している原発だ。いや、さらに昔の91年には同じ美浜の原発で、原子炉側の細管が破れて放射性物質が海や大気を汚染するという事故もあったのだが、人体被害はなかった。だから、そうした根幹インフラの運用において、今度はついに死者が出たということになる。

(以下冗長) しかしなんとも微妙なのは、その商用原発の最初にして最大の惨事が、誰もが怖れていた放射能とは無縁だったということではないだろうか(タービン側の破損が原子炉側の深刻なダメージに結びつく可能性もあったのではとも思うが、そうした指摘はあまり見かけない)。

もう20年以上も昔、私は福井にいて、ある喫茶店で「原発おおいに結構」という人と議論したのを思い出す。原発を一応批判する私に対し、その人は「石炭エネルギー等では多くの人命が落盤などで奪われてきたが、原発のせいで死んだ人はいない」と強調した(チェルノブイリの事故はまだ起こっていない頃だったか)。その人は「ソ連が攻めてくるから日本は軍備増強すべきだ」とも言った。私は「ソ連が攻めてくると言うけれど、ちっとも攻めてこないじゃないか」と小田実みたいに反論した。そんな時代だった。どちらの議論も当時からすでにありふれていたのだが、今だに正解はわからない。

ともあれそれから時は流れて、上にあげた91年の放射能汚染、95年のナトリウム漏れは、原発であるがゆえの重篤な事故や災害だった。だから原発反対論者はそのつど「それみたことか」「言わんこっちゃない」と主張した。しかし一方で、原発で事故が起こっても辛うじて死者が出ない程度には日本の原発は大丈夫なんじゃないか、とそんなふうに考えた者もいたはずだ。

では今回の「放射能なし、犠牲者多大」の事故を、どう捉えればいいのだろう。蒸気がタービンを回すという原理は火力発電も同じらしいので、その点では、原発特有の惨事でもないのだろうか(詳しく知らない)。またこの事故は「とにかく放射能は出なかった」と評される。放射能の不気味さは、地元の住民に無限に近い不安を常に与えてきたし、同時にそれは不気味にマヒしてきたようでもあるが、さらに不気味なことに、放射能は今までのところ取り返しのつかない汚染にまではなぜか到っていないのだ(たぶん)。つまり「クリーンで安全な原子力発電」は、電気を使って暮すだけの大阪や東京でのみ成立しているのではなく、地元においても、いや発電所内においてすらそれなりに成立している。ただ今回は作業の人だけが、放射能とは別の思いがけない形で、クリーンでも安全でもない最悪の状況に置かれていたということになる。もっと言うと、日本の先端技術を極めた原子炉の側で放射能が限りなく精緻に制御されているのと裏腹に、なんだか低技術な蒸気やタービンの側で現場の人間だけは杜撰な危険に曝されていた、というふうにも見えるが、実際はどうなんだろう(わからない)。

最近、郵便小包みの配達にムカムカすることが多いのに比べ、民間の宅配サービスの迅速さ細やかさには恐れ入ってしまう。利用する側にとっては「快適で便利な宅配サービス」だ。ただそうした物流の精緻な制御のツケが、きっとトラック運転者や高速道路を杜撰な危険に曝しているに違いない。電力による快適や便利が限りなく増し、しかも放射能はどうにか漏らさないなかで、蒸気だけが大いに漏れたというのが、構図として重なる気もする。あるいは、世界経済の先端に位置するエリアがクリーンさ安全さをどんどん確実にしていくのと裏腹に、ちょっとわきにずれたエリアでは低技術の汚く危険な戦闘や自爆テロが頻発するというのも、似ていなくもない。WTCの崩壊だけは、まさに「メルトダウン」のイメージだったけれど。

話はどんどんずれていくが――。まだ日も高い時刻に近所の道を歩いていて、勤め人風の男性とすれ違い「どこかで見たなあ」と思うと、「ああ郵便局の人だ!」ということが時々ある。それも3人それぞれに。家路に着くのがそろって早い(彼らとやけに出会う私もどうかと思うが…)。おかげで4時には切手すら買えない。しかし一方で、なんの変哲もない住宅地であるうちの界隈に、一家の親父がちゃんと稼げる事業所というのはめったにないが、あの特定郵便局だけは例外だ。

「小泉よ郵政民営化がんばれ」と言いたいのではない。では何が言いたいか――よくわからない。ただ、郵便局員も過労死するまで働けと迫るよりは、我々みんなが近くに勤めて日の高い時刻に歩いて帰れるような経済社会だったら、小包みの配達が少々不便でも楽しいのにな、と夢想する。宅配サービスの快適や便利は素晴しいが、そのおかげで働く人があまりにも不快で不便なのは、どうかと思うのだ。世界全体がもうちょっとノンキにやって、うまくいかないものだろうか。まあ原発の構造や点検がノンキだったら、大勢の命にかかわるわけで、やはりダメなのか…。いやノンキと杜撰は違うとも思うのだが…(結論なし)。