東京永久観光

【2019 輪廻転生】

久々


言語というのは正しい使い方や意味が決まっていて、それを皆が共有し守っているからこそコミュニケーションがうまくいく。常識ではそう考える。ところが哲学者デイヴィドソンは違うと言ったらしい。たとえばナイフとフォークを使うとき、マナーにかなうかどうかより、食事ができたかどうかが肝心だ。それと同じく言語も互いに通じればそれでいい。しかも、言語にはこのマナーに当る本来の規則なんてものはそもそも存在しないのだ――そこまで主張した。いわく「言語が、多くの哲学者や言語学者が考えてきたようなものだとすれば、そのようなものは存在しない」。つまり我々は、相手が示す言葉をそのつど一から解釈していくことで、その意図をどうにか推しはかっているのだと。

そんなことが『デイヴィドソン 「言語」なんて存在するのだろうか』(森本浩一)に書いてあった。NHK「哲学のエッセンス」シリーズからの一冊。

「言語に規範はあるのかないのか」あるいは「そもそも言語なんて存在しないのではないか」。これは「ロボットに心はあるのか」「そもそも心なんて存在しないのではないか」という問いにも似ていると思った。「心がある/ない」どちらの立場からも、ロボットや心に関する深い分析が可能だ。それと同じく、言語が存在しないとまでは言えないだろうと思う私にも、デイヴィドソンの説明は、ふだん言葉を使っている体験やその実感を実にリアルに描写していると感じられたのだ。そこが面白かった。

このデイヴィドソンの言語観を「コミュニケーションのアナーキズム」と形容するのは野矢茂樹だ。それが『哲学・航海日誌』。デイヴィドソンの独創性をきちんと消化しながら、でもコミュニケーションって実際そこまでアナーキーじゃないよね、と述べていく。

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デイヴィドソン…』は、次のサイトで相次いで紹介されていて気になった次第。
http://d.hatena.ne.jp/merubook/20040603 
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0405c.html#p040530b
しかも、私にとって哲学っぽい関心のいちばんの核心がまるごと一冊に濃縮されているとずっと思っている『哲学・航海日誌』を、しばらくぶりに読むことにもなった。本当は野矢氏の考察について今度こそちゃんと書きとめたかったのだが、また宿題になった。なお『哲学・航海日誌』は、三浦俊彦が書評で賞賛し、途方もなく深い世界の眺め方の可能性すら嗅ぎとっている(参照)。さらには、なんと野矢氏自身が「他にもいろいろ書いたけど、これを読んでほしいな」と推薦しているのをこのあいだ発見(参照)。やっぱりね!

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さてちょっと話は飛ぶが。パソコンの調子がどうも良くないとしよう。それは風邪を引きやすい子供のようなものなのか。それともチェーンの外れやすい自転車のようなものなのか。どうみなすかで、心構えや対応は変わる。内部の状態を細かく検査してみるとか、ガンと蹴ってせいぜい油でもさしておくとか。あるいは励ましの声の一つもかけてみたり? どれが合理的なのか本当のところ私は知らない。でも経験的には、調子の悪いパソコンは結局なんとかなる。風邪だってやがて治るし、自転車もたいてい動く。人間も機械もなんで故障ばっかりするんだと嘆くことは多いが、実はどちらもけっこうしぶとく復活する。

他人と言葉が通じる不思議さも同じ。コミュニケーションできないのを嘆くより、コミュニケーションできてしまうことにもっと驚いてもいい。そのとき言語とは、たとえば子供みたいなものなのか、それとも自転車みたいなものなのか、あるいはパソコンみたいなものなのか。どうみなすかは自由だし、どうみなしても言語の分析はできるだろう。重要なのは、言語をどうみなすかを超えて、だれもが言語を使ってコミュニケーションできてしまっている事実自体だ。デイヴィドソンもそういう発想の転換を経由したようだ。

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ところで、「思想」なんて存在するのだろうか(自民党とか民主党とか私とか)。

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デイヴィッドソン 「言語」なんて存在するのだろうか ASIN:4140093145
哲学・航海日誌 ASIN:4393323017