『哲学探究』を久しぶりに開いている(新訳か)
連投したツイッターのログのような感じもする。
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《私の書いたものによって、ほかの人が考えなくてすむようになることは望まない。できることなら、読んだ人が刺激され、自分の頭で考えるようになってほしい》《いい本をつくりたかった。けれどもそうならなかった。だが私には手をいれる時間が、もうない》(はじめに)=丘沢静也訳=
ひどく弱気な告白。前著『論理哲学論考』の完璧な強気との、あまりの落差を改めて思う。《本書に表された思想が真理であることは侵しがたく決定的であると思われる。それゆえ私は、問題(*哲学の全問題)はその本質において最終的に解決されたと考えている》(論考「序」)=野矢茂樹訳=
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さて今回は、クリプキ『ウィトゲンシュタインのパラドックス』をちゃんと読むことにした次第。ウィトゲンシュタインを読んでクリプキのこれを読んでいないのは、インドは旅行したがカルカッタは行ってないに等しいことは、侵しがたく決定的であると思われる。
なお、『ウィトゲンシュタインのパラドックス』を読もうと思ったのは、飯田隆『ウィトゲンシュタイン 言語の限界』に導かれて。この本で飯田先生はウィトゲンシュタインの思索のほとんどについて、繰り返し検討するが、いずれも結論を出しあぐねる。まるで「インドのことはわかりません」
ただ「私的言語」をめぐってクリプキの『ウィトゲンシュタインのパラドックス』の明晰さには脱帽した、その説明は私が書くより原典をあたったほうが絶対いいと、強く述べていたのがまた印象的で、それで読むことにした。まるで「インドのことはわかりません。ただタージ・マハルは完璧に美しい」
★ウィトゲンシュタインのパラドックス/ソール・クリプキ
http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20180430/p1へ続く