侯孝賢(ホウ・シャオシェン)の映画『恋恋風塵』(戀戀風塵)を、ついさっきNHKで見た(そのあと寝たけれど)。やっぱりこれぞ私の好きな映画ベスト1だと言いたくなる。「好きな映画ベスト1」とは「好きな映画ベスト1」という意味だ。しかしこんな形容ばかりでは、検索に引っ掛かった人に申しわけない。すでに劇場で2回見ているが、たまには忘れないうちに具体的なことを記しておこう。
たとえば、永遠の記憶に刻まれた数多くのシーンのほんの一つ。やや長いブラックアウトが明けると、台北駅のホームに、さっき着いたばかりの少女ホンがいて、幼なじみの主人公ワンが迎えにくるのを待っている。田舎から上京し働き先もこれから見つけようという状態だ。しかしワンはなかなか来ない。そのうちに見知らぬ男がホンの荷物を騙して持ち去ろうとする。すんでのところでワンが現れ、それを奪い返す。やれやれと思ったワンだが、ホンから「芋がまだ男の手にある」とか言われ、さらに男と格闘させられる。その弾みで、ワンの持っていた弁当箱が線路にぶちまけられる。ワンはすでに台北に2年ほど住んでおり、小さな印刷屋で働きながら夜学の高校に通っている。で、この弁当箱は、その印刷屋の女主人がワンに命じて小学校の息子へ届けさせるはずのものだった。このトラブルでワンは女主人からひどく叱責され、もともと居心地のよくなかった印刷屋をやがて辞めることになる。一方、この芋というのは、郷里にいるワンの爺さんが、印刷屋の親方に孫をよろしくというつもりのお土産として、上京するホンに持たせたものだった。爺さんがワンを思いやる素朴な気持ちが、芋となって台北に向かい、それがワンにとっては少々迷惑な荷物に転じたわけだ。
しかし、この映画は実に寡黙なので、出来事がいつも説明抜きで先行し、こうした背景はいずれも、映画を注意深く見ていくうちに徐々に知れてくる仕掛けになっている。とはいえ私は2度見ているのだから、すっかり知っている、と思いきや、すっかり忘れている。たとえばこの弁当箱ぶちまけのカットでも「なぜこんな物をしつこく写すのだろう」と訝しく思い、あとで事情がわかって「ああそうだったっけ」と徐々に知れてくる仕掛けになっている。
それどころか、なんと、兵役を終えて帰郷したワンが、爺さんと実家の裏にある畑で語らうラストシーンで、爺さんはまさにその芋を作っている最中で、その苦労と誇りについてもしみじみ語っているではないか。一番好きな映画のくせに、これほど大切なことを自覚していなかった。なにが永遠の記憶か。唖然とするばかり。
それにしても、じゃあなぜこの映画がそれほど好きなのか。その核心はなかなかわからない。そもそも映画を見ることの何が素晴しいのかが、同じくらいわかっていない。むしろ、何度も何度も見ることでそれが徐々にわかっていくのを、映画を見る幸せと捉えたほうがいいのかもしれない。
たとえば、あの台北駅とそれに続く展開のなかには、芋や弁当箱の話にとどまらず、ワンにまつわるいくつもの事情が埋め込まれている。映画の進行とともにそれが解きほぐされるのが待たれてもいるわけだ。『恋恋風塵』のような作品は映画全体がそうであるようだ。描かれている主題は、ハリウッド映画みたいなグローバルさで明瞭になるわけではない。十分に説明されているとも言えない。だからたとえば、台湾と中国との関係や過去の日本との関係をもしまったく知らない人がいれば、映画のなかで年配の者がワンに語る戦争体験や、ワンが赴任した金門島という場所の緊張感も、感じとることはできない。それと同じように、ワンとホンの世界像となっているはずの具体的な事物や感情の一つ一つは、外国人であり素養もない私にはそう易々とはわからないと思ったほうがいい。もちろん、2時間ほどの間に映し出されるシーンだけを見て、なんらかの真実に迫るのが映画というものであり、それが達成された証拠に感動もする。しかし、同じ2時間を何度も繰り返すことで、やっと新しく発見されるものが、まだまだ埋め込まれているだろう。そうした可能性を信じて好きな映画を見続けることは、なにより楽しいだろう。
『恋恋風塵』を初めて見たのは郷里の名画座だった。たぶん日本公開(89年)に近い時期だ。2回目はずっとあと。東京で台湾映画の特集があった時だ。この映画には映画上映のシーンが何度かあるが、その劇中映画のひとつ『アヒルを飼う家』もその折りに見た。調べてみたらちょうど6年前だ。(参照:昔の日誌)ちなみにその時期もフセインとホワイトハウスは揉めていた。そういえばそうだった、忘れていた。ブッシュ一人を悪者にして話をまとめたいところだが、当時はクリントン政権だ。
だから考えてみれば、6年前に見たきりの映画をそんなに詳しく憶えているわけがない、というのが正しいのかもしれない。もちろんここ6年間で『恋恋風塵』に関する情報に一切触れなかったわけではない。たとえば四方田犬彦が『電影風雲』という分厚い本のなかで侯孝賢を精力的に取り上げているのを読んだ。『恋恋風塵』についても得るところ大きく、台北駅のシーンにも詳しい。他にも侯孝賢について書かれたものはいくつか目にしたはずだ。つまり、『恋恋風塵』自体をじっくり見る回数はけっして増えないのに、『恋恋風塵』について知る回数だけは増えた。これは映画との関わりにおいてありがちと思われる。その映画に関する情報はちゃんと憶えているのに、映画自体をもう何年も見ていないことだけはつい忘れる。というわけで、やっぱりもっとしっかり何度でも映画を見よう!
これは実人生もしかり。少年や青年のころの記憶とは、反芻し確認してみれば、けっこう誤りや新事実が発見されるものだ。このことが示すのは、自分の人生や思い出というものは、長年のうちに揺るぎなく体系化され価値付けされているが、それに直に触れるような作業は実は案外ないがしろにされている、ということだ。『恋恋風塵』などの映画は、ちょっとそんなことまで示唆してくれる。
(注意!注意!ネタバレあり!)『恋恋風塵』では、ワンが兵役に行っている間にホンが郵便配達の男と結婚してしまう。「ええっ、そんな…」とまたもや驚愕。…というのは嘘だ。さすがにそれは忘れない。ただやっぱりここはいつ見てもあまりに唐突だ。もっとも、ホンの心情や明白な理由が描かれないからこそ、その唐突さが悲痛さをいっそう引き立てもする。しかし、実はそれにつながると深読みできなくもないような、二人の細かい仕草や台詞や出来事が、どこかにそっと埋め込まれていないともかぎらないではないか。『恋恋風塵』、あと100回は見たい。
★恋恋風塵/侯孝賢 asin:B000K7VIRM
★電影風雲/四方田犬彦 asin:4560032572