東京永久観光

【2019 輪廻転生】

ウェブ教養学部


今ウェブを回っていて気になる本は『経済学という教養』(稲葉振一郎)そして『責任と正義』(北田暁大)だ。どちらも手強そうだが頑張って読みたいとも思わせる。稲葉氏の本は『Hot Wired Japan』の連載が元になったという。あの連載は独創的で、私もある程度フォローした。北田氏は「嗤う日本のナショナリズム」という2ちゃんねる論が鋭い切り込みぶりで、ネットで大いに注目された。前著『広告都市・東京』の名もウェブでしばしば目にした。どちらも個人サイトがあって近況や考察に触れられるところも、わけなく親近感をおぼえる。

考えてみれば、2人とも私はそもそもネットで名前や著書を知り、個人的に盛り上がった。ただネットを離れると、それに言及したりされたりという機会は今に至るまであまりない。こういう落差はもはや普通になったかもしれない。まあ、私にオフがなさすぎともいえるのだが。

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このところ社会学倫理学といった分野は、世の知的関心の中心に躍り出ているように見える。かつてのポストモダン思想が「ああたしかに流行にすぎなかったんだ」といよいよ頷けるほどに、自由や正義をめぐる議論はそれに代わって盛んだ。キーワードというなら「リベラリズム」だろう。加えて、経済学も「いや〜わかりません」ではすまなくなった実感がある。2冊への興味はたぶんこうした流れの上にある。ちなみに、昨年の『自由を考える』(東浩紀大澤真幸)でも、哲学や文学の退潮と社会学などの隆盛が指摘されていた(現状肯定的ではない)。

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その北田氏は、ウェブにこんなことを書いている。

《「応答することは決して許されない」という状況に置かれたとき、そして、いかなる意味においても「応答」を試みることが絶望的な他者と対峙したとき、たぶん僕たちは絶句するしかない。その人のために悩むことも苦しむこともつっぱねることも怒ることも許されない(その人は確実に苦しんでいるというのに)。許されないという状況に怒る程度のことしかできない。そしてそのメタレベルの怒りが不当なものであることも認めなくてはならない。自分が応答可能性の外部に置かれざるをえなくなるということ。その恐怖を分かっていない責任論はクズだ。》
http://d.hatena.ne.jp/gyodaikt/20040106#p1

応答することが決して許されないこと。これは実は自分や身近に起こりうる。しかし同時に、たとえば中東で明日にも自爆テロで命を捨てようとしているはずの人のことが、私はふと頭に浮かんだ。

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80年代から90年代にかけて、冷戦構造や55年体制あるいは中流意識といった実は長閑な気分がまだどうにか持ちこたえるなか、文化や思想は、まさに戯れとして華々しくバブリーに浮かれていた。今となってはそんなふうに括ることもできる。

それが崩壊して久しい昨今、同時多発テロイラク戦争が目の前で起こり、自分たちも不景気のなかで財を奪い合っている。なんともすべてが熾烈な情勢で、昔からみれば生活はもちろん生存すら不安ではないか。それに対する処置として、サロンの遊戯みたいな文化や思想とは別のものが求められている、ということがあるのだろう。だいいち戦争というものがいよいよ身近に迫っている。賛成するにせよ反対するにせよ、遠くの話でも昔の話でもなく、そのことを判断しないわけにはいかない。

先の2著書には、そうした思考への導きを期待するところがきっとある。

もう一つ付け加えると、ブログや掲示板の普及という点からみても、たとえば責任とか応答とかの用語で喚起されるコミュニケーションの問題は、けっして他人事ではない。それが日常の中心課題になってしまったユーザーも増えているのではないか。

まとめて言うと、80年代的な思想の優雅さ贅沢さとは違って、現在は、いくらか応急処置や特効薬としての思想が求められるということになろう。

ただ、応急処置といっても、『君もこうして年収アップ』とか『誰にも好かれるコミュニケーションのコツ』とか、まるきり対症療法的な本に殺到してしまう現状もあるようで、それはそれで時代を映しているのかもしれない。もちろん、稲葉本や北田本に期待するのは、年収やコミュニケーションで「利するための方法」ではなく、年収やコミュニケーションを「考えるための方法」だ。それはいうまでもない。周囲を見渡せば、危機に際して監視や排除を強化し先制攻撃までしてしまう対症療法が、あれよあれよと正当化されている。その手しかないのかどうかをこそ思考したいのだ。

実学という言葉がある。実際の困難に正面から立ち向かって問いかけるという意味でなら、今は実学が求められていると言ってもいいだろう。

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ところで、いま「実学志向」というと、都立大つぶしに躍起のバカ石原を嫌でも思い出す。最後にこんな話をしたくなかったが、この件、知れば知るほど空前絶後の悪行だ。大学の当事者が年数をかけて積み上げた改革案を、あのバカときたら、一撃でひねりつぶし嘲笑すらしたうえで、いきなり新大学構想(統廃合ではない)とやらをぶち上げたことを、ご存知だろうか。人文・法・経済・理・工の5学部をすべて混ぜこぜにして「都市教養学部」にするらしいが、理念やカリキュラムを積み上げることは当然できず、なんと予備校の河合塾にその作業を丸投げしたのは、ご存知だろうか。石原め、殿様きどりか独裁者か。そうだとしても、こういうのを千年の愚行と呼ぶべきだ。

全体として、学問という都の遺産を行政が横取りし産業に投げ売りしている、というふうに見える。こういうのが新しい時代であってそれを俺様は先導して嵐を呼ぶ男(の兄)だぜ、と図に乗っている態度も見てとれる。取り巻きロビーもいるのだろうが、それが財界の取り巻きというより、どうも学界自体にいる取り巻きであるような気がして、なんともタチが悪い。

石原はきっと「実学」とか言うに違いない。でもそれは「企業に好かれる大学のコツ」にすぎない。今私が求めている実学ではない。