まもなくその歴史を閉じようとしている『ニュースステーション』だが、久米宏が脚光を浴びだしたころ、ビートたけしがよく「久米宏みたいに言っておけば、文句が出なくて安全なんだよ」とか呟いていたのを思い出す。栗本慎一郎もたしか「中道やや左、これが今の日本ではいちばん支持されるんです」などと皮肉っていた。どちらも正確な引用ではない。ただ「中道やや左」という表現だけは、虚を突かれたので今も憶えている。私は「中道やや左」の存在は日本社会に無益であるよりは有益であったと思う。それでも、たしかに「中道やや左」がかくも無謬がごとき構図は、なんだか興味深くあった。そんななか、やぶれかぶれの潔さで極左や共産原理主義(?)に惹かれたりしないでもなかったものではないのではなかろうか、である。
ところが今や「中道やや左」には、ネットの反論をはじめとして迫撃弾の雨アラレ。それは誰の目にも明らかだ。これまた「時代がそうノンキではなくなった」という括り方にもなろう。
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さてさて、昔は「中道やや左」が光っていたとすれば、今は思想の流布は、左右ではなく難易の差異にこそ鍵がある、と見ることはできないか。いやちょっとした思いつきだが、近ごろ求心力のある思想が左右いずれも「中級やや難」に位置する気がしないでもないのだ。難しい思想は難しいし、易しい思想は易しいのであって、それと実効性は関係ないはずなのに、易しいものはバカにされ、かといって難解も基準を超えるとそっと外される。政治経済社会文化いずれの思想もそんな状況なのでは? ちょっと努力すれば家が買える「金の中流=プチブル」に変わって、ちょっと努力すれば本が読める「頭の中流=プチインテリ」が案外コアな階層を形成しつつある。
そんなことを、たとえば『はてなダイアリー』なんかをブラウズしていると感じてしまうのだった。なお、難と易の分水嶺は人によってずれるだろうから、「中流やや難」が誰に当るかは各自想定されたし。
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こう考えてみて、島田雅彦の『無敵の一般教養』という対談本も、そうかこれはつまり「中級やや難」に安住しているんだ、と膝を叩くことになった。前も言ったが、島田雅彦には同世代の知性代表として期待するところが私はとても大きい。だから、この学問対談もやはり難解は難解のままぐっと極限まで追及してほしかった。島田氏にこそその能力や資格はある。それは島田氏も自覚しているはずだ。それなのに、そうしたなりふりかまわぬ格闘はちょいと避け、「中級やや難」の大学教授として振る舞う。
NHKの小津安二郎特集にゲストで出た時も、それなりにはっとすることを言うが、本当の小津フリークには全然生ぬるいだろう。その程度がテレビに馴染んでお洒落でもあるのだろうが、島田雅彦が中庸の人ではつまらないじゃないか。たまには無茶苦茶なことを言ってほしい。気がふれるまで考え抜いてほしい。
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さてその『無敵の一般教養』の対談相手として、足立恒雄という数学者を初めて知った。で、この人の話に「これは!」と直観するところがあり、著書を読んでみることにして『無限の果てに何があるか』という一冊に行き当たった。というか神に出会った。これぞ、数学の何たるかの本質を難を難のまま初心者にもどうしてもわかってもらおうとする至高の入門書だ。まだ4分の1しか読んでいないが、もうはっきり「今年のベスト1」と宣言しよう(というか今年はまだオンリー1か?)。ちなみに元はカッパサイエンスだが、「なんだ、易しそう」と軽んじる者こそバカを見よ。
それにしても、「数学が苦手で」という島田雅彦じゃないけれど、この私が数学の本を他人に勧めることになろうとは。まあ長生きはするものだ。そのことについては日を改めて。
ASIN:4839820317 無敵の一般教養
ASIN:4334781500 無限の果てに何があるか