東京永久観光

【2019 輪廻転生】

なにかと長い

●そろそろ阿部和重の大長編『シンセミア』を買って読みたいが、実はその前にいいかげん片づけておかねばならない本が一冊。『白鯨』だ。●なんとまあまる一カ月を超える読書になってしまった。寝る前に本を開くことが多いが、眠くなるまで床に入らないこともあって、ごぞんじのとおり分厚い本のページは、船旅のごとく進行が鈍い。とはいうものの、同書は135章に細かく分かれ、それぞれ何が書いてあるかがはっきりしているうえ、その各タイトルがその各内容をちゃんと要約してもいるという、今どき(今どきではないか)珍しく手堅い小説なので、そこまでの流れを忘れてもすぐ思い出せるし、時間がなくても一歩(一章)ずつ区切って読めるし、ちょっと飽きても次の章で回復しやすいなど、利点が多い。ただ、ちょっとネタバレなので注意してほしいが、白鯨たるモゥビ・ディクは、主人公の乗りこんだ捕鯨船の前にいつまでたっても姿を見せないのだ。135章のうち110章を過ぎたが、まだその気配もない。その代わり鯨と捕鯨にまつわる蘊蓄百科があきれるほど続く。薄々予想されたとはいえ、これほどまでとは知らなかった。こうなると、どうあってもモゥビ・ディクを一目見るまでは本を閉じるわけにいくまい。ちなみに、捕鯨船はまさに七つの海を巡っており、今は南シナ海から台湾とフィリピンの間を通って太平洋に抜け、どうやら日本近海を目指している。エイハブ船長が眺める海図には「ニフォン、マツマエ、シコケ」とある。


●ところで、私は阿部和重の小説はたしか全部読んだはずだ(われながら殊勝)。そういう点では『シンセミア』の準備は万端。しかし漏れ伝え聞くところ、『シンセミア』は中上健次を踏まえて云々と、怖れたとおりのことが指摘されている。その中上健次なら『岬』『枯木灘』と読んだが『地の果て 至上の時』は未読だ。やはりこの三部作をまず済ませるべきか。とはいえ、今もし『地の果て 至上の時』を読むなら、このさい『岬』と『枯木灘』も読み返したほうがいいだろう。おまけに、中上健次の小説にはフォークナーの影響が、大江健三郎との対比が、といったこともしばしばのたまわれる。ああ『シンセミア』は遠ざかる一方。●しかし、そういえば『白鯨』にしても、「ホーソーンに」との献辞があるし、旧約聖書ギリシャ神話がごく当たり前のように引用されてくる。まあ小説とはそういうものなのだろう。


●それにしても、『白鯨』の書かれた19世紀であれば、西洋人の教養を形成していた古典というものは、たぶん何世代にもわたって受け継がれたかなり固定的なラインアップだったと想像する。その総量もたぶん今より多いということはなかろう。少なくともメルヴィルが『白鯨』を書いた書斎の世界文学全集に『白鯨』は入っていなかったのだ。では、『シンセミア』が書かれた現在、我々が読まねばならない古典は19世紀に比べて何冊くらい増えたのか。などと考えて、なんとも憂鬱な多幸感に襲われる。それとも、19世紀には人類の遺産だったけれど21世紀の今となっては無価値なので参照しなくてけっこう、という末路をたどった文物が、そうとうあるのだろうか。●さて、こうした総論はいったん置き、現代日本に焦点を当てた場合、小説を書いたり読んだりする人が、いささか疑わしくもともあれ共有してきた文学史という前提は、90年代さらには00年代ときて、いよいよ無理にあるいは不要になりつつある、そんな思いが漠然とながら広がっている。それは何故かというときに、現代に由来する特殊事情をいろいろ考察することが肝要だが、それとは別に、単に近代が長くなったから、戦後が長くなったから、単に世界の範囲が広がったから、そうして記憶や思考の単なるキャパシティーがいくらなんでも限界にきたから、というつまらない理由も十分考えられる。


●というか、こうしてまたつまらない時間を食ってしまった。それより私は今何を読まねばならないのか。『白鯨』だ。

●(昨日に追加)
土屋俊の発言がウェブにあることは以下のサイトで知った。
http://d.hatena.ne.jp/saroma-san/20031111#p3 
普通なかなか気がつかない。