★狼/新藤兼人(1955)
★どぶ/新藤兼人(1954)
★裸の十九歳/新藤兼人(1970)
今年亡くなった新藤兼人の映画を3本みた。
最初にみた1955年の『狼』。敗戦後の日本貧困博覧会といった趣き。強烈なインパクト。偶然出会った名も無く気弱な一群の人々が現金輸送車を襲う。そのストーリー自体とにかく面白いが、犯行に至ったやむにやまれぬ日本社会の惨状に、さもありなんと感じ入った。かくも鮮烈な一作を今まで見たことがなく名前すら知らなかったとは…
たとえば小津安二郎は1949年には『晩春』を、1953年には『東京物語』を発表し、上品な日本の生活や家屋を映し出していたわけだが、「実際そんなにノンキな国民ばかりではなかったにきまっている!」 そんな毒づくような共感を、さらに『どぶ』『裸の十九歳』とみて募らせていった。(とはいえ、その後ことしは小津映画もけっこうみたので、小津映画への親しみはこれまで以上に感じることになったのだが)
新藤監督の映画では妻の乙羽信子がいつも前面に出てくるが、1954年『どぶ』ではとりわけ大車輪の活躍だ。フェリーニ『道』のジェルソミーナになぞらえたりもするようだが、私はむしろ「アヒル口」の元祖がここにあったのだ!という発見に心が踊った。若きハンサムな宇野重吉も出てくる。宇野重吉は晩年の芝居の記憶が大きいので意表を突かれたが、それ以上に宇野重吉もとうに鬼籍の人であることを思い、戦後という時代が本当に一回りしてしまったという感慨に浸らざるをえない。でもこんな日本が本当にあったのだ。
『裸の十九歳』は1970年。連続射殺魔事件として知られる永山則夫をモデルにした映画。永山則夫の事件もまた、高度成長に沸きたつ日本の影で少なからざる人々が置かれていた厳しい現実を浮かび上がらせているのだと思う。とくに母親役の乙羽信子は、またしてもひどい目にあい続ける。
★ボルベール<帰郷>/ペドロ・アルモドバル(2006)
★オール・アバウト・マイ・マザー/ペドロ・アルモドバル(1999)
この監督はずっと気になっていてやっとみた。(むかし『キカ』はみたかも)
ボルベール。冒頭、女たちがそろって必死で墓を磨いているシーンの横移動。これはもう大変おもしろそうなことになる予感。実際キテレツまたキテレツといった展開がすぐに待っている。挙げ句(ネタバレになるが)「なんだこれは幽霊映画か」と思いきや、最終的には「殺人ミステリー映画」ともいえる落ちへと至るのだった。
それにしても、室内や中庭で映し出される日常の風景は色彩がじつに鮮やか(それでいてどこか渋くもあるのだが)。女優ペネロペ・クルスのボディコンシャスぶりも独特。また、車で移動するシーンで大地にずらりと並んだ風車が目をひき、ラ・マンチャということなのでドン・キホーテと風車が思い浮かび、「やっぱり風がよく吹く土地なんだろうか」などと当たり前のことを思う。
考えてみればスペインの映画なんてめったにみない。めったにどころか、私はビクトル・エリセの2作以外はまったく知らないのだった! サッカー好きを自認する人は多数の国のチームについて語れるだろうが、映画好きを自認する人も同じくらいは多くの国の作品について語れないとダメだ。
なお、女性ばかり出てきて男性が刺身のツマ扱いなのは、監督のジェンダーからくる志向だろう。
オール・アバウト・マイ・マザー。これまた出来事が次々に急展開していく。この監督の強烈な個性なのだろう。
葬式のシーンで参列者がみなサングラスをしていたのもまた印象的だった(どっちの映画だっけ? 両方とも葬式シーンはあったはず)
★アキレスと亀/北野武(2008)
これはゆるすぎ。「美術はなんて素晴らしいのだろう」という驚嘆と、「美術なんてたいしたものじゃないんだ」という反骨の、どちらもが中途半端でしかないと感じられた。
★桐島、部活やめるってよ/吉田大八(2012)
これは劇場鑑賞。こちらに一言だけ →http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20121023/p1
★時計じかけのオレンジ/スタンリー・キューブリック(1972)
★赤目四十八瀧心中未遂/荒戸源次郎(2003)
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このところDVDで昔のドラマも借りる。
★ふぞろいの林檎たち/TBSドラマ
このドラマより少し後に流行したトレンディドラマというのは、主人公たちが毎日大半の時間を割いているはずの仕事の内容や熾烈さというものには、ほとんど触れていない印象がある。まったく対照的に、仕事というものの卑小かつじつに嫌な側面、たとえば上司とのつきあいや取引先とのかけひきのひどさを、これほど写実的に描いたドラマはないのではないか(パート2)
そうみると、一方で、主人公たちの勉学を描写する場面などはまったくないわけだが、それは通常大学生が学問とあまりに縁がないからであり、その意味でもこのドラマはリアルなのだ(パート1)。時任三郎は就職が内定してやっと中学レベルの英会話を始める(パート2)。
家業としてのラーメン屋や酒屋の日常もまた、たぶん非常に写実的に描かれている。
(山田太一はこうした脚本を書く際、実際の人々に面接して詳しく取材するという話を、当時耳にした)
どちらのパートも展開が早い。主に4人の若い男と4人の若い女が出てくるが、いつも何か事件が起こり、そのためにすぐに連絡を取りすぐに会い、それがまた新たな波乱を招くことになる。その繰り返し。当時は携帯電話がないから黄色い公衆電話や黒い固定電話をダイヤルしてまで連絡をとりあっている。リア充というならまさにリア充だろう。そうした関係を国広富之は「いいね」と言うのだが、それは皮肉というものではない。(連続ドラマなので、毎回何かトラブルが起こらないと話が進まないし、人物を登場させるためにすぐに会わせないといけないといった事情もあるだろうが)
回を追うごとにトラブル(エピソード)が次々に炸裂するので、一体どう収まるのかと思う。ところが最終回、あまりに見事にあまりに綺麗にまとまる。実にうまいと感じ入るけれど、うますぎて無理があるとも感じてしまう。そこもまたドラマ放送の制約というものかもしれない。
(たとえば阿部和重『シンセミア』=小説=の結末などは、あまりに見事に決着がつき、かつ無理なところもまったくなく、ただただ感動した。正反対なのは、たとえば村上春樹『海辺のカフカ』で、あまりに何も解決しなくてびっくりした)
私の郷里福井には民放の放送局が2つしかなくTBSは見られない家庭が多い。だからドラマ『時間ですよ』は福井にとっては同時代の出来事だったとは言えない。現在もケーブルTVなどを利用しないかぎり事情はあまり変わらない。(そんなわけで、国民アイデンティティ保持の最強兵器たるべきテレビの普及が、実はきわめて歯抜け状態でしかなかった事実には、もっと唖然としてよい)
さてこの1973年の『時間ですよ』は、浅田美代子が松の湯の働き手になるところから始まる。隣の真理ちゃん(天地真理)は同じく窓辺でギターを弾いている。もちろん天地真理や浅田美代子は日本全国の人気者で、私もよく聴いていた。そして『時間ですよ』というドラマがあるらしく彼女たちが出ているらしいという話は、『明星』や『平凡』で知っていたのだが、ドラマはおそらく一度も見たことがなかった。
だから、1973年の『時間ですよ』を今こうして視聴するというのは、私が生きてきた日本とは少しだけ違う日本のパラレルワールドにタイムスリップする心地がする。長生きも三文の得だが、地方在住も三文の得だ。
ちなみに松の湯があるのは五反田という設定。『コンニャク屋漂流記』の星野の実家がここで、この地の下町風情について詳しく書いている。
★深夜食堂
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↑ 映画DVD鑑賞記録 2012年 (2) http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20121023/p1
↓ 映画DVD鑑賞記録 2013年 (1) http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20130423/p1