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【2019 輪廻転生】

★アメリカ文学史/平石貴樹

アメリカ文学史


《本書では、アメリカ文学史をとおして、自我のありかたの変化をいくらか丁寧にたどってきた。結末にあたって振り返ってみると、時代ごとの自我のありかたを反省することができるのは、ひとえに小説のおかげであって、小説がなければ、そもそも人は人生の方向どころか、自我とはなんであるのかさえ、わからなくなっていたに違いないようにも思われる。現代人が今後とも着続けなければならないユニフォームの、どこがどのようにほころび、どのような修繕が有効なのか、それも小説がなければ、判断がつかなかったに違いない。あるいはもう、修繕は不可能なのかもしれない。だが、それでも生きていかなければならないとはどういうことなのか。小説はそうした問いを、答を急がず、矛盾をおそれず、個々の物語に即して噛みしめる。問いを噛みしめることこそ、小説と主人公が、長ながと野暮ったくつとめてきたことだ。ユニフォームを脱いでなにか別のコスチュームに取り替えることができない以上、問いを噛みしめる人が、そばにいていくれることは、なにがしか現代人のなぐさめになるのではないだろうか? そうした小説の原点を、あらためてたしかめるべき場所へ、現代と現代小説がさしかかっていることだけは、どうやらまちがいないようだ》(結末部分)

小説のおかげで「われわれは自我をたしかめることができてきた」という。たしかにそうかもしれない。愚直な問いだが、ゆえにわかりやすい問いなので、この本は読みやすいと思われる。

分厚い本のほとんどは読まず、『白鯨』とレイモンド・カーヴァー、ピンチョンとパワーズの部分を少し読んだだけ。それでも、東大のおそらくとても偉い先生の小説の読み方が、私となんだか同じような愚直なところにあることがわかったようで、なんだかうれしい。

村上春樹にかなり言及しているのも、この本の特徴と思われる。そして村上春樹の「卵と壁」をめぐって、やはり愚直に問う。村上春樹全共闘の連中に対して批判的であることを指摘し、それがなぜかという問いも追究している。著者自身が同世代なので、これもなかなか貴重。というか、村上春樹を評するのに、その問題はもっとも大事な問題だろう。

《その壁とは、本章にいたるまで繰り返し確認してきた、現代の「大きな物語」の喪失、自我の希薄化、それらにともなう無力感であると考えていいだろう。無力感が巨大であるために、村上の人物たちは、孤独で希望がないだけでなく、しばしば精神を病んで自殺する。卵のように割れるのである》(だいぶ略して)
《それでは、現代日本の空気が、なぜこのように窒息的なものになったと村上は考えるのか。この問いにこたえるヒントを、村上ははっきりとこの作品のなかに書き込んでいる。それはこの作品のやや奇妙な部分、全共闘運動に対する主人公の批判に読みとられる。この作品は、意図的に、おもな出来事が全共闘運動がさかんだった一九六九年から七〇年の時期に設定されている》
《「それではなぜ、村上は全共闘運動をゆがめて認識し、しかもわざわざそのことを作品の中で繰り返し書かねばならなかったのか」》
《その理由は、かれにとって、あるいはかれ以後の日本(の若者)にとって、全共闘運動が、自分たちを『割れる卵』として認識することをこばむ若者たちによってになわれた巨大な『壁』をこわそうとして蛮勇をふるっていたからだとしか考えられない。「大学解体」を叫んだかれらは、自分たちの人生と社会の意味を、なんらかのかたちで再発見、再構築することを求めていた。希望のない世界を巨大な壁として描きたい村上にとって、希望をたくわえた全共闘運動は、あってはならない存在だったのであり、だからこそ不倶戴天の敵として何度でもたたきのめさずにはいられなかったのだろう》(このくだりは上記の結末部分のすぐ前に置かれている)