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【2019 輪廻転生】

気分はもう平和


★絶望の国の幸福な若者たち/古市憲寿

 絶望の国の幸福な若者たち


昨年の人気本。少し前に読んだ。


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「若者」という概念は歴史的なものにすぎないという指摘は、そう言われればあまりにそのとおりで、今までどうしてそう思わなかったか不思議なほどだ。

「風景や内面は明治時代まで存在しなかった」という、柄谷行人の衝撃的に意表を突いた指摘を久しぶりに思い出した(『日本近代文学の起源』)asin:4061960180

若者は歴史的(一時的)に現れただけというのは、小説が歴史的に現れただけとか、国家が歴史的に現れただけというのと同じことなので、そうすると、「そうか国家とともに若者まで消えていくのか…」と、20世紀少年の私にはますます寂しい事態だ。とはいえ、戦後の日本が青春時代などとっくに終えていることはわかりきっているのだから、今さら嘆いても仕方ない。

この、西洋や日本の近代という枠組みに支えられて出来上がった「国家」という制度が、21世紀になっていよいよ消えつつあるという実感は、きわめて本質的で根本的だと私は思っている。だから、今どきの若者のナショナリズムをワールドカップへの熱狂やベーシックインカムをめぐって描写した章は、興味深いものだった。


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若者が消えるというのは、「文化や社会の現象が特定の世代に偏ることがもうない」という意味でもある。つまり、自分と感覚が似てる人も自分と感覚が違う人も世代に関係なく存在しているということ。

実際、年齢が同じだけで趣味が合わない人よりも、年齢は違っても趣味の合う人と話したほうが楽しい。インターネットの発達は、僕たちの出会いのチャンスを大きく広げた。上野千鶴子(六三歳、富山県)がツイッターでかつての学生とやり取りする時代なのだ。

この構図は文化や社会だけでなく経済の話としても展開されるが、それこそが見過ごせないと私は思う。すなわち、「現在の日本で高齢世代は不当に得をし若者世代は不当に損をしている」という文句がよく飛び交うが、真に深刻なのは次のことなのだ。

よく知られているように、高齢世代ほど世代内格差は大きい。

一九七〇年代、まだ企業社会に入る前か入った直後、つまり賃金格差もなく、ボリュームとしても多かった若者たちを「若者」と呼ぶことには確かに意味があったのかも知れない。だけど年老いた今、「高齢者」と一くくりにはできないほど、彼らは多様だ。歩んできた道も違うし、資産も違う。

ちなみに、生活保護140万世帯のうち約4割は高齢者世帯だ、ということも記されている。


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さてでは、若い世代の今後は。

このままでいくと、日本や緩やかな階級社会へ姿を変えていくだろう。

だけどそれは、人びとにとって不幸な社会を意味しない。たとえば最低時給が三〇〇円くらいになってしまったとしても、「健康で文化的な最低限度の生活」を保証するために、WiiやPSPを支給しておけば暴動も起きないだろう。

同時にテクノロジーの発達は社会の姿を少しずつ変え、あらゆる情報はリコメンドされる、と言う。

その頃には「全国ニュース」も多くの人には意味のないものになっているだろう。一部のエリートは難解なNHKニュースを見続けるかも知れないが、多くの人はリコメンドされるままに「合コンで印象に残る自己紹介パターン」などのニュースを見続ける。

これらは皮肉や絶望として述べているのではないだろう。東浩紀のいう動物化の肯定に近いと思った。asin:4061495755

もうここまで来たら、江戸時代とあまり変わりがない。


もしや「青年の絶望」こそ近代特有のものにすぎなかったのでは?


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さて、そのNHKでは「NEWS WEB」という深夜番組が今年からスタート。月曜日のナビゲーターとして颯爽と登場したのが古市憲寿さんだった。初回を見たが、アナウンサーを置いていくほどたくさんしゃべって面白かった。たくさんしゃべるのに、たとえば東浩紀さんほどやかましくないのがまたおもしろかった。そういう世代なのか。それにしても、民放のTVはスナック菓子やカップ麺のような味でクセになるわけだが、こうした天然香辛料をいち早く用いるNHKもまた民放に負けずうまいとおもった。うまい汁というか。


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むかしから若者が社会活動をするのは、社会を変えたいというより、だれかと仲良くしたいからだ、といった話も出てくる。「共同性」か「目的性」かという用語が使われる。

この「共同性」と「目的性」については、大澤真幸が著者の別の本『希望難民ご一行様』を書評するなかで、しっかり考察していてとても勉強になる。大澤は次のように書いている。

《人がほんとうに求めているものは、実はCの方である。Cこそが幸福の源泉だ。そのことを思えば、Pはただの「ネタ」である。しかし、「ネタ」なのだからあってもなくても同じだ、ということにはならないのだ。ネタだとしても、Pを経由しなくては、ほんもののCに到達できない。逆に言えば、真の欲望の対象はCだが、それはネタであるPの副産物なのだ》(*Cが共同性、Pが目的性ということになる)

http://book.asahi.com/ebook/master/2012030600001.html


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念のため言っておくが、こんな漫画がありました。
気分はもう戦争大友克洋矢作俊彦
 気分はもう戦争 (アクション・コミックス)

80年代、日本はいわゆる平和ボケのため、戦争イメージは気付け薬だった。ところがその後、様々な社会問題が顕在化し、少なくとも気分においては「これはもう本当に戦争じゃないか?」という逆転がいつしか起こったと思う。ところが、もはやそれがもう一度逆転し「ああいろいろあったが、結局それでも平和じゃないか、日本は」という気分。それに古市本は気づかせた。