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【2019 輪廻転生】

羊をめぐる冒険/村上春樹(2)


「羊」が何を意味するか。ジンギス汗の名が呼びだされもしているが、モンゴル的な征服権力意志を象徴していると、一応いっていいだろう。(川村二郎「文藝時評」『文藝』1982・9)


「羊」とはいったい何なのか。おそらく村上春樹はそれは結局は何かのメタファーではなくメタファーのためのメタファーだといいたいに違いない。事実、その通りだろう。/だがそれを承知で私としては最後に敢えてこの「羊」の正体を解釈してみたい。村上春樹がこだわりつづけた「羊」とは実は、あの一九六〇年代末期から七〇年代初頭にかけて当時の若い世代をより非現実の彼岸へと押しやった「革命思想」「自己否定」という「観念」ではないだろうか。(川本三郎村上春樹をめぐる解釈」『文学界』1982・10)


羊の世界は「他者性」の象徴である。(井口時男「伝達という出来事」『群像』1983・10)


著者が世代的に少しずつずれている三人の男のなかを〈羊〉にめぐらせていることを考慮すれば、〈羊〉は、変転しめぐりめぐってゆく時代のダイナミズムと、もっと日常的で些末な価値、たとえば主人公をめぐる女たちとの日々や、主人公の心的領域を去来する経験やものたち、それらの諸価値のあいだの不可避的〈軋轢〉あるいはもっとひらたくいえば〈関係〉のようなものの暗喩であったのではないだろうか。(安達史人「善き牧者と聖なる羊 「羊」をめぐる寓意」『HAPPYJACK鼠の心 村上春樹の研究読本』1984


一九四八年生まれの「鼠」は一九七八年ウマ年に自殺するが、「僕」が三十歳になるのは七九年ヒツジ年の初頭だ。とすれば「羊」とは、村上春樹がこだわっていた"三十歳"という年齢のことかもしれないではないか。(柘植光彦「サンタクロースのいた日々 世代としての中上健次村上春樹」『国文学』1985・3)


村上春樹の「羊」に内在しているのは、この西欧社会を象徴する「羊」のメタファーであって、西欧近代の文化の力を象徴していると同時に、日本近代の西欧化への意志を象徴しているように見える。(関井光男「〈羊〉はどこへ消えたのか」『国文学』1985・3)


上記はすべて『村上春樹スタディーズ 01』にある「『羊をめぐる冒険』――ミメーシスされる〈物語〉」に引用されていたものをそのまま孫引きしたもの。

「解釈が知りたい」と最初に書いたが、こうしたものがそれに当たるだろう。

論者の今井清人は これらを踏まえつつ自らの解釈を展開し、次のようにちょっと長くまとめる。


「羊」は「僕」や「鼠」が幼少期のイノセントな外界との一体感を喪失して以来、"向こう側"の幻想として内部に抱え込んでいる始原の混沌の記憶の象徴であるといえる。それを鳥瞰的に見れば、原質であるアジア的根株に西欧から輸入した"近代"の倫理を接ぎ木した、個人の輪郭を溶解する構造のまま膨張をつづける日本の近代の象徴ともいえる。(それは「行く先のわからないままやみくもに進化した古代生物のようにも見える」(四―6)という「先生」の屋敷の奇景の姿に形象化されている。)そしてその深層に目をむけユングの言説を使うなら、自我を誘いこみ去勢する、優しく美しい一方恐ろしく邪悪な、両義性を持つ太母(グレートマザー)を象徴するもだといえる。(羊とは羊水から派生した表現ではなかったのか?)また、物語の文法からいえば、「羊」は三十歳を迎えようとしてる「僕」が自己を手に入れるドラゴン退治=母殺しの物語を貫徹するためにフリークス性=幻想を背負わされて屠られる用意されたスケープゴートだ。


母殺し? ドラゴン退治? いきなり読むと首をかしげるかもしれないが、この小説を穏当に分析し穏当に統合すると、たしかにこうした結論が浮上してくる。といっても「なるほど、わかった!」と万人がすっきりできるかというと、そうではないだろう。


私はべつにこうした「羊」の穏当な解釈を求めていたわけではないのかもしれない。

では、「羊をめぐる冒険」をまた読んで、私は何を思ったのだろう。何かもっと言いたくてこのままでは立ち去れない気持ちの正体は何なのだろう。


羊をめぐる冒険村上春樹(1)http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20111030/p1

羊をめぐる冒険村上春樹(3)http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20111224/p1