東京永久観光

【2019 輪廻転生】

理解中枢の薬物刺激

活字中毒。なにか読んでいる状態が平常で、そうでないと煙草や酒を欠くのに似てじっとして居られず手も震えだす。…のかもしれないが、結局そうなる前にそこらの本でどこかのページをめくってしまうので、どうにかなっている。では、煙草ならニコチンやタール、酒ならアルコールに当るものは、読書のばあい何か。小説などをちょっと除外して考えると、それは結局「なにかがわかる」というエッセンスに行き着くと思う。ラーメン屋に本を忘れて入ってしまい、待っている間の手持ちぶさたを「取締役島耕作」やテーブルのメニュー表で紛らす時を思い出そう。当店のラーメンは何々で出汁をとり、麺はこう打ちました。ああそうだったのか。だから旨いのです。はあなるほど。何かを読んで何かを理解していくという、頭と心の平常運転がこうして維持される。読書なんてその繰り返しにすぎないのかもしれない。●そんなことを感じつつ、『ユークリッドの窓』(レナード・ムロディナウ著、青木薫訳)を読んでいた。アメリカ東部の夢多き高校生が夏休みに読むべき課題図書の一冊ということだが、それを日本のいい大人が将来の当てもないのに苦労してでも読み進まずにはいられなくなる現象は、読書の目的や価値をそうした無償の快感に置かないことには説明できない。いやもちろん、高校生にもそうした勉強の無償性を伝えたいという願いなのだろう。●参照→『リリカの仮綴じ〆』。

●『ユークリッドの窓』は、幾何学ないしは数学の歴史において画期をなした5人(正確には5つの革命)を順に追っていく。5人とは、ユークリッドデカルト(意外にも)、ガウスアインシュタインウィッテン(ひも理論の俊英という)。●で、「わかった」とか「理解」とか言ったけど、じゃあ一応何がわかったのかというと――。やはりタイトルからいっても、ユークリッド幾何学から非ユークリッド幾何学への転換、そのツボが少々わかったというのが最初のポイントだろう。それに続いて相対性理論、ひも理論がそれぞれ概説される。ここはもちろん難しいけれど、非ユークリッド幾何学がもたらした「空間が曲がっている」という発想をまずいくらか押さえ、その発想なしでは構築できなかったという相対性理論さらにはひも理論を続けて読んでいくことになる。おかげで、まったく知らないとは言わないが知っているともまさか言えない相対性理論やひも理論について、独特で即効性のある理解演習になったとは思う。●このほか、関数はなぜグラフになるのかという、当たり前のようだが、そういえば大昔ヘンだと思ったおぼえもある、そんな疑問が抽出されてくるのも新鮮だった。これは幾何学と代数の統合というこれまた重大なテーマらしい。デカルトはここで登場する。●そうこうしているうちに、数学を中心に西洋における思考や学問の基盤がどう変遷したかのダイジェストが、なんとなくわかってくるのだ。また、たとえばローマ帝国キリスト教ヨーロッパがオリエントやギリシアの知的遺産をいかに捨ててしまったか、中世の大学教師はいかにひどい待遇と環境にあったか、といった歴史もピンポイントで味わえる。●もうひとつ。随所にふりかけられた皮肉の描写が、カート・ヴォネガットを思わせる洒落っ気と意地の悪さに満ち、最後には笑うだけでなく拍手までしたくなってしまった。著者は大学教授からサイエンス番組の脚本家に転身したとあるが、この皮肉のセンスは、きっと数学への愛およびその困難をともに熟知しているがゆえなのだろう。


●さらに私としては、数学と物理学の微妙な関係について、改めて感じ入るところがあった。数学は絵空事なのかという問いの解答ともいえる。●もともと数学は土地を測量したり利子を計算したりといった実際の世界を把握する道具だった。ところが、非ユークリッド幾何学というどんでん返しが起こるなかで、数学の方程式や証明は、それに対応する実際の現象がなくても、つまり抽象的な世界だけを相手にしても成立するんだ、という話になってきた。逆にみれば、数学は現実世界という後ろ盾を失ったということだ。それに加えて、でも数学の新たな基盤である抽象世界というのは当然完全無欠なんでしょう、という願いも、そうではありませんでしたという結論になってしまう。●さてその一方、数学がいったん手を放したこの現実世界は、物理学が引き受ける。ところが、その物理学は、我々がどっぷりつかっている時間や空間あるいは物質や力という現実が、実は相当ヘンテコなものであることを徐々に明らかにしてしまう。そして、そのヘンテコな物理世界の法則を見つけだすために、非ユークリッド幾何学から生じたヘンテコな抽象数学が改めて呼び寄せられるのだ。そのヘンテコ数学をこのヘンテコ物理に当てはめたら、あら不思議、すかっときれいに説明できてしまった(相対性理論)!●ひも理論にもまったく同じ構図があるようだ。だいたい、ひも理論は大勢の研究者にずっと嫌われてきたが、それには、ひも理論の数学が超難解だからという理由も大きかったらしい。しかしその一方で、物理学の究極問題として「この宇宙の物質や力はそもそも何から出来ているのか」というまさしく超難解な問いがある。そして、その超難解な物理学に、その超難解な数学を当てはめてみたら、あら不思議もしかしたら解けそう、というところに差しかかっているのが、ひも理論なのだ。ただし、相対性理論は完成し証明もされたが、ひも理論はまだ完成すらしていない。だから、結局ひも理論は数学としては正しくても現実の物理には当てはまらなかった、つまり「ひも理論は絵空事の数学だった」となる可能性は残っている。●とかなんとか長々まとめていると、ラーメンが伸びる。

●でもさらに一言だけ。上に述べた物理学と数学の関係は、言語生活という現実を、言語哲学の理論で説明することにも似ている。そのとき、言語生活という複雑怪奇な現象を解釈するために、言語哲学がどんどん複雑怪奇になっていくのは、まあ仕方がない。ただその瀬戸際において、言語哲学の美しい抽象性をどこまでも極めたくなってしまい、それと裏腹に、言語生活のややこしい具体性にどこまでも拘るという姿勢がついおろそかになってしまう、そのようなことはないか。ウィトゲンシュタインという人のことがやはり思い浮かぶ。彼は言語生活の具体性への拘りのほうを、いつまでもいつまでも捨てられなかった人なのではないか。『論理哲学論考』から『哲学探究』への移行も、言語哲学の抽象性から言語生活の具体性への重点変更というふうに捉えられるかも? ●とはいえ、こうした構図は、なにも言語でなくても、あらゆる現実と理論の問題として普遍化できるような気もしてきた。最近『はてな』で話題の「ひきこもり」の議論にだって当てはまるだろう。あるいは、何にも当てはまらなくても、現実と理論という構図はそれ自体で深化していく、という気すらしてくる。そうまるで抽象数学のようだ。ふと、柄谷行人の『内省と遡行』を思い出す。あそこで言う「形式化」という見方をやっぱり踏まえておくべきか。まあしかし、あの内容はほとんど把握していないし、そもそも話が広がりすぎた。もうこのへんで。


ユークリッドの窓/レナード・ムロディナウ
ユークリッドの窓~平行線から超空間にいたる幾何学の物語