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【2019 輪廻転生】

2ch原論

●「藁う日本の…」じゃなくて「嗤う日本のナショナリズム」と題された北田暁大氏の論文(世界11月号)は、評判にたがわず面白かった。2ちゃんねるとは何か。その分析が絶妙な焦点と配分で濃縮されている。たとえば、《八〇年代が涵養してきたアイロニズムの精神と、《繋がり》を前景化した九〇年代的(動物的?)なコミュニケーション様式の狭間で、2chはいまなお揺らぎ続けている。》と。●アイロニズムとは、「オレたちひょうきん族」などのテレビ視聴で鍛えられた、内情を裏読みして皮肉る、といった高度なリテラシーのこと。しかし、ここが肝心だが、そのリテラシーは80年代には結局メディアや巨大資本という特権的な中心に寄りかかったものだったのに対し、2ちゃんねるはそうした共同性をも無価値化していると見る(こうした評価が的確な表現でプッシュされるところに、この論への納得と信頼を感じた)。また、この80年代から00年代への変遷の背景には、自足的な《繋がり》の志向、たとえば携帯電話などに象徴される「コミュニケーションのためだけのコミュニケーション」というものがあるとしている。●そのうえで北田氏は、2ちゃんねるの危うさをも摘出する。すなわち、《偽悪を装う「2ちゃんねらー」たちは、本音を語るリアリストというよりは、「建前に隠された本音を語る」というロマン的な自己像を求めてやまないイデアリストであるように思われる。》さらには折り鶴プロジェクトなどに触れつつ、《アイロニズムが極限まで純化されそれ自身を摩滅させるとき、対極にあったはずのナイーブなまでのロマン主義が回帰する。》そして、ここから最も厄介な部類のナショナリズムが生じかねないと警告する。●う〜む、これぞ「ネタがいつしかマジになる」というやつか? ただまあ、ネタとは常にマジなところに流れがちなものであり、ナショナリズムもそうかもしれず、そうした危うさこそが面白さであり、そのことをだいたいわかっていながら、一夜限りの、スレッド限りのロマンチストあるいはナショナリストをちょいと演じてみる、という部分もあるだろう。たまには嗤う側だけでなく嗤われ側にもあえて立ってみるテスト、というか……。そうしたネタかマジかの区分ができないものとしての「祭り」があるのかもしれない。北田氏は、2chの揺らぎを正確に捕捉する言葉が必要としているが、この「祭り」の分析こそ、その核心かも?

●仮に「良いナショナリズム」というものがあるとして、それが「参加しないナショナリズム」ではなく「参加するナショナリズム」として可能だろうか。それとも「参加するナショナリズム」はすべて「悪いナショナリズム」なのだろうか。それと同じように、「良い2ちゃんねる」が「参加しない2ちゃんねる」ではなく「参加する2ちゃんねる」として可能だろうか。