東京永久観光

【2019 輪廻転生】

涼しくならず熱くなる

●「幽霊を見た」「あの世がある」と信じる人にとって、「幽霊」や「あの世」の説明や定義は漠然としていて神秘化もされている。だから、「幽霊を説明してください」「あの世を定義してください」と問われてもうまく答えられないが、かえってそれが「幽霊は説明できないものとして存在する」「あの世は定義できないものとして存在する」といった思いを強めていく。「だったら物理的存在ではないんですね」と科学者が詰めよっても、「そのとおり、物理的存在ではないんです」と堂々としている。一般的にはそんな構図があるだろう。

●幽霊は物理的存在でない。物理的存在以外に存在はない。だったら「幽霊は存在するか」と問うのはナンセンスだ。――これは常識というべき理屈だ。そこは踏まえたうえで…。●「幽霊が、従来の物理的存在の範囲を拡張させる新しい物理的存在だったことが判りました」という事態なら、将来も絶対ありえないとは言えない。たとえば、サッカーボールというのは、PK戦でそれを蹴ったときにゴールに入るか入らないかどちらかでしかないものとして、通常は存在している。ところが、一個の電子というのは、板にあいた二つの穴を同時に通り抜けるものとして存在する。この電子の奇妙なふるまいが発見されるような事態だ。しかし、今言われている幽霊がそのような存在であるとはまったく考えにくい。●一方、物理的存在ではないが「存在する」という言い方をするものはある。たとえば、現在クジラより大きな哺乳類は存在するか。「うちにあるよ」「うそだ、あるわけない」「あるさ、作ればあるさ」。ではクジラより大きくかつ蟻より小さい動物は存在するか。「それもあるよ、作れば」。しかし、幽霊がこのような存在だと思われているわけでもないだろう。

●ともあれ、私たちは「幽霊」や「あの世」という言葉をふつうに使う。そうして、だれかが死んだあともその人がなんらかの形で残っていて、生きている人ともなんらかの形で交われる、そういった世界を思い描く。上にあげた理屈をぜんぶ踏まえても、そんな存在は無茶とわかっていても、やっぱりそういう言葉を使い、そういう世界を思い描く。そのとき私たちはいったい何を思考しているのだろう。思考しているものについてうまく語ることはできないし、なにも思考していない可能性もあるけれど、そのとき「あまりに不思議なかんじ」がすること、それだけはたしかだ。

●それはどのような不思議だろう。たとえば「宇宙には果てがある」とか「宇宙には果てがない」といったことを空想するときの不思議さに似ている。「その宇宙の果ての外はどうなっているの?」と考える不思議さに似ている。もちろん「死んだらどうなる」と考える不思議さにも似ている。●ほんとうの不思議。今こうして宇宙が存在しているけれど、なぜ、これらすべては無いのではなくて、これらすべてが有るのだろう。まったく何も無いというふうになっていないのは、どうしてなんだ。●さらなる不思議。これがもしも、そういうふうな、まったく何も無いということだったなら、それはいったいどういうかんじなのだろう。わからない、まったくわからない。●しかも、そういう、無いのではなくて有るようなところに、こうやって私が、いないのではなくて、いるというのも、とほうもなく不思議だ。生まれてこなかったとしたら、「なにかが有るというこのわけのわからなさ」も、「なにも無いというあのわけのわからなさも」、もっぞずっとわけがわからなくなってしまうのだから。そんなたいへんな違いを生じるようななかで、私が生まれてこなかったのではなくて、私が生まれてきたというのは、どういうことなんだろう。ましてや、生まれてきたのではなくて、生まれてこなかったというのは、どういうかんじであると空想すればいいのか。……え、あなた、幽霊が見えるんですか。そうですか。いやそれは不思議ですね。不思議ですけど、今そこまではかまっていられなくて……。

●以上、『圏外からのひとこと』essaさんと『幻燈稗史』jounoさんの議論に触発されたが、応答ではなく自由に書いてみた。入り口は、http://d.hatena.ne.jp/jouno/20030828#1062079571あたりがよいだろうが、今もどんどん進展しているので注意。