東京永久観光

【2019 輪廻転生】

書き組

●きのう池田小事件の判決を伝えるニュースを見ていたら、殺された児童の生前の日常を記録したビデオ映像が次々に(8人全員?)流れた。この年ごろの子供なら、こうした幸せいっぱいの思い出というものが保護者のカメラでちゃんと撮ってもらってあるのは常識なのだろうか。また、インタビューを受けた遺族(両親?)は、悲しみや怒りを述べながらも物腰や口調が落ちついており、隠された顔の代わりに目に入るネクタイや時計、指輪なども良い趣味に感じられた。いやな話だが、経済の勝ち組という以上に文化や精神の勝ち組といった発想までしてしまうのだ。でもこの勝ち組この階層にこそ、殺人犯の男は強く憧れ、そしてそれを強く憎んだのだろう。それが犯行の動機というならシンプルと言っていい。●たとえば私もきょう散歩していると、高く頑丈なコンクリート塀と鬱蒼とするほどの樹木に囲まれた大きな大きな屋敷の門から、黒塗りピカピカの大型乗用車が、誰か(使用人?)に見送られて出ようとしていて、ウィンドウ越しにまだまったく若い人物が悠々とハンドルを握っているのが見えたときは、ふと「火でもつけてやろうか」「少なくとも塀に落書きくらいはしていいんじゃないか」「Yahoo!BBの赤服集団を送り込むという手もある」と邪悪な念がまったく浮かばなかったといえば嘘になる。このばあい落書きは「スペクタクル社会」じゃなくて「夜露死苦」。●でも火はつけない。まあ落書きもしない。そのへんが、「殺したい」と思うだけでなくそのとおり「殺してしまう」人と、思ったとしても今のところ実行しない人との事実上の隔たりだ。その隔たりが生じた背景やその隔たりをなんとか保っておく方策を明らかにしていくことが、たぶん社会としては有益なのだろう。

●その一方で、有益かどうかはさておき、かの「なぜ人を殺してはいけないのか」の問いもまた浮かんでくる。散歩しながらあれこれ考えた。この問答がすっきりしないのは、もっと積極的に「なぜ人を殺さなければならないのか」と問うことが巧妙に避けられているためではないか。それはなにより不道徳で反社会的だという嫌悪から避けられてしまうのだろうが、それだけではない。「人を殺さなければならない」理屈というのは、実はそれなりに正当性を持つ。ただ同時に、「人は殺されてはたまらない」理屈というのも、もちろん正当性を持つ。両者はそれぞれに正当性を持つのだ。しかし、当然のことながら同時には成り立たない。その本質的な困難を避けたくて、問いをわざわざ混同し曖昧にすると「なぜ人を殺してはいけないのか」になるのではないか。

●このことは、「人の顔を便器にデザインしなければならない」気持ちと、「人の顔が便器にデザインされてはたまらない」気持ちとが、それぞれ正当性を持つと思えるのに、やはり同時には実現できないというのと同じ構図にみえる。●「なぜ人の顔を便器にデザインしてはいけないのか」という問いも、そのままではどうもうまく考えることができないのだ。そうではなくて、「私はなぜこの人の顔を便器にデザインしなければならないのか」または「なぜ私の顔が便器にデザインされてはたまらないのか」を、いったんは別個に追求することから始めるのがいいように思う。