東京永久観光

【2019 輪廻転生】

スペクタクル社会という思考の巧緻もしくは狡知

●公衆トイレの壁に「戦争反対」などの落書きをして逮捕された青年が、建造物損壊罪という異例の容疑で起訴までされてしまった事件(6.17の日誌でもふれた)。

●第一回公判の「青年の意見」と「弁護人の意見」がそれぞれ掲載されている(『落書き反戦救援会』から)。どうやら青年は「戦争反対の落書きはそれほど悪くない」というのにとどまらず「戦争反対の落書きをするのは自然だ」という立場のようだ。弁護人はそれを法律的に正当化しようとする。

●これを読んだ平均的な感想とはどういうものだろう。「いくらなんでも調子にのりすぎ」「ちょっと頭おかしいんじゃないの」といった反感の声がそこかしこから聞こえてくる(幻聴?)。

●しかしその場合、次のように想像することも必要だろう。警察や検察がこの落書きをよくある落書きとして簡単に処理せず、あえて建造物損壊として起訴した背景には、それと同じ反感があったのだと。この青年のやり口や言いぐさは、なんか普通とは違うぞ、「調子よすぎだぞ」「頭おかしいぞ」と、警察や検察もまた直観したのだと。言い換えれば、この青年と弁護人の意見を読んで「調子よすぎ」「頭おかしい」と憤慨するときは、だいたい警察や検察と同じ感覚に立っているということになるだろう(それをよしとするかどうかはさておき)。

●しかし、さらに想像を進めることができる。それは、青年の落書き行為や法廷での主張は、そもそも、そのような警察や検察のやり口や言いぐさこそが(あるいはそれと同じ世間の感覚こそが)「調子よすぎ」「頭おかしい」と直観しているところから生じているのではないか、と。●だからここには、お互いがお互いの現実感を「調子よすぎ」「頭おかしい」という根拠で相対化し否定する、という構図が隠れているように思える。そうして私たちも、この事件に関心を持てば持つほど、「調子よすぎ」るのはどっちだ、「頭おかしい」のはどっちだ、というふうに、自らの思考を同じ構図に巻き込ませずにはいられなくなる。

●裁判というものは、白黒をはっきりつけるためにあるのだろうから、こうした構図をあえてくっきり浮上させるのは仕方のないことなのかもしれない。建造物損壊という深刻な容疑を覆そうとすれば、青年と弁護人もいくらかアクロバティックな理屈と戦法を取らざるをえないのかもしれない。そして、私たちが行なう議論というものもまた、宿命的にそうした構図にならざるをえないような実感がある。

●いろいろ書いたけれど、実をいうと、私の最終的な関心は、青年の行為や主張の根底にある一定の信念(あるいはこだわり)自体にある。それはつまるところ「資本主義や国家制度を相対化しつつやがて否定しよう」といったポストモダン的左翼系の信念ということになるだろう。それは「スペクタクル社会」という考え方の基礎でもあるだろう。それがどのように有効なのかということを、それがどのように限界があるのかということと同時に、えこひいきせず、ゆっくり考えてみたいのだ。しかし、そうしたところにたどりつくまでには、「おまえこそ調子よすぎ」「私こそ頭おかしい」といった構図や応酬の嵐に、外からも内からもさらされそうで、かいくぐっていく自信がない。

●だからいつも、なんとなくお茶を濁すようなことを述べて終わってしまう。たとえば――。青年の弁護人の意見には《この公共の壁には、すでに「悪」「タツ」という落書がなされ、放置されている状態であった。被告人は、そのような意味不明の落書だけの存在では落ち着かず、なんとしても自らの反戦メッセージを書く必要を感じたのである》とあるのだが、そうなるとこの弁護士さんは、下の日誌でふれた、個人サイトのコメント欄にいたずらな書き込みをした高校生のばあいでも、ちゃんとかばってくれるだろうか。――てなぐあい。

●ともあれ、落書き〜グラフィティ〜いたずら書き込み、といったトピックが同時期に生じたことは面白い(『はてなの杖日記』『錯節』など参照。*追加=『ARTIFACT』)。事情は微妙に違うが、それぞれ考えさせられ、何か言いたくなる。そういうところに私の世界観や思想らしきものが試される! …と、なんだか大げさになるのは恥ずかしいが、しかし、こうした身近で具体的な例にこそ大げさに考えるだけの実質がある。世界観や思想が試される、なんていう局面とはまったく無縁の人生も悪くないが、そういう大げさな局面が本当に持てるとしたら、きっと今みたいな時にちがいない。

●なお、弁護人が表現の自由とともに無罪の根拠にしている刑法35条については、たとえばこのページが参考になった。