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【2019 輪廻転生】

2ちゃんねるとは何か

●幼児を突き落として殺した犯人が中学1年生だったからといって、もうさほど目新しさを覚えず、その中学1年生の氏名らしきものが2ちゃんねるにアップされたと聞いても「さもありなん」としか思わない自分に驚くけれど、そうした書き込みを削除せよと法務省2ちゃんねるに直々に要請したというニュースには、現在地の標識があるのかもしれない。

●その2ちゃんねるとはいったいどういう現象なのか。ずっと気がかりの中心にあったこの問いに、『美しい日本の掲示板』(鈴木淳史)は、まことにツボをついた解答例を示してくれる。最終的なまとめはこうだ。2ちゃんねるとは《匿名や特殊な言語使用がもたらすマターリ化や、はかなさを象徴する祭りや「一切はネタである」という姿勢など、日本という文化の底流に位置するもので構成されており、またかつて存在していた地域コミュニティの復活ともいえる。それは、同じメディアの大手マスコミのウラを張れるだけの瓜二つの構造を持っている。》こうした分析が、2ちゃんねるのスレッドや文体の模倣を織りこんで必要以上に楽しませる形で展開され、実際に2ちゃんねるにハマっている者を大いにうなずかせる。●そのなかで著者は、2ちゃんねるを「連句」あるいは「落書」に見立てている。とりわけ「落書」は重要なキーワードであり、日本の歴史において落書が生まれた背景や落書が果たした役割を指摘しながら、2ちゃんねるをその系譜に位置づける。そしてここに生じているやりとりは、あえて「議論」ではないのだと最後に判断している。

●さて。あれよあれよという間に話題沸騰となった高校生いたずら書き込みの一件だが、あの不規則コメントも、そこからいくと、とうぜん「議論」モードとしてではなく「落書」モードとして書き込まれたのだろう。逆にサイト主がそれを受け入れなかったのも、コメント欄に書き込まれたいと期待していたモードが「落書」ではなく「議論」だったから、ということになろう。●さらには、私の日誌をふくめて数多く投じられた反応は、高校生の書き込みを「まあいいんじゃない(おもしろい)」と捉えるか「いやけしからん(つまらない)」と捉えるかによっても、大きく分かれてくるが、この傾向は、ほかでもない2ちゃんねるという現象を「おもしろい落書」と感じるか「つまらない議論」と感じるかと、かなり相似しているのではないだろうか。

●一方、反戦落書きについてだが(6日の日誌に続く)。起訴された青年が描いたという「戦争反対」「スペクタクル社会」の文言がまとっているものや、彼を支援するサイトがまとっているものも、いわば「議論」のムードではないか。逆に、2ちゃんねるの戯れ言につらなる「落書」のムードなら、同青年が「戦争反対」を書く前にすでに壁に描かれていたという「悪」「タツ」の文言のほうがまとっていたと思われる。●「スペクタクル社会」という分析には深いものがあるようだが、『美しい日本の掲示板』が示す「2ちゃんねる社会」や「落書社会」という分析にも、それに負けず現代日本を透視するだけの新鮮さがあって、捨てたものではない。

●もうひとつ。2ちゃんねるを語るのに「匿名性」という特徴がしばしば挙げられる。ただしそのばあい、正体を隠して好き勝手ができるという「匿名性」だけでなく、かの『自由を考える』(東浩紀大澤真幸)が抽出していた「匿名性=偶有性」という概念をも、2ちゃんねる現象のうちに探ることが可能ではないだろうか。『美しい日本の掲示板』は、2ちゃんねるに無数の書き込みをしていく名無しの書き手たちが、誰が誰であるとは不可分の状態であるとして、江戸時代の百姓の群れになぞらえている。このあたりから「匿名性=偶有性」という概念が改めて思い浮かんだしだい。(カンチガイでなければいいが)

●なお、著者の鈴木淳史には『クラシック批評こてんぱん』という名著があるのはごぞんじだろうか(参考までに)。おかしなことに、今回またもや訂正の紙が挟み込まれているではないか。「ネタじゃないのか」と疑いつつも、つまりこれはふたたびの「神降臨」であると受けとめるとしよう。