東京永久観光

【2019 輪廻転生】

★血と暴力の国(ノー・カントリー)

年末年始に用意した本の1つが『血と暴力の国』(映画『ノーカントリー』の原作)だったが、手にした日にほとんど読んでしまった。映画の静まりかえった緊張がそっくり蘇り、やめられなかった。原作に忠実な映画というより、見据えている何ものかの様相が完全に一致しているのだろうと思った。

今さらなぜ原作を読もうと思ったのかというと、以下の『ノーカントリー』評に大きくうなずいたからだった(2019年のブログだが私は年末に見つけた)

https://cinemore.jp/jp/erudition/923/article_924_p1.htm

《「変わりゆくアメリカ」が裏テーマにある本作で、シガーの役は国籍や思考回路を含めた「異物」であることを求められた》
《『ノーカントリー』では両者ともに感情がない。事務処理的に殺し、殺されていく。その結果、浮かび上がるものは何か。「神の不在」だ》

映画『ノーカントリー』は最初見たときから、まさに「見据えている何ものかの様相」がきわめて強い印象を残した。ところが、その「様相」は明白でも、そもそもそれが「何ものか」が私は言葉にならず、長年気になっていた。この映画評こそがその「何ものか」を指し示していると思えたのだ。

そのうえで『血と暴力の国』(コーマック・マッカーシー)を読むと、不思議にも、その様相が『ノーカントリー』そのままなのと同時に、それが「何ものか」もまた何故かスムーズに把握されてくる。小説は言葉だから当たり前かというと、べつにそうした説明の多い作品というわけではない。

 

ここからはおまけの話―― 昨年オンデマンド視聴した韓国映画の1つ『弁護人』で、思想犯に仕立てられて逮捕された主人公を躊躇なく拷問していく男(クァク・ドウォン)が、オカッパ頭で、『ノーカントリー』を思い出して不気味でした!
https://aisubekieigatachi.com/bengonin/