《ひとりの人間が、他のひとりの人間について十全に理解するというのは果たして可能なことなのだろうか》
考えをそうとう巡らせたあげく、結局こうしたありふれた文言が浮かんできて、それをツイートしてしまうのは、私には毎度のことなのだが、しかし上記は私のつぶやきではない。
村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』第1部「泥棒かささぎ編」の2「満月と日蝕、納屋の中で死んでいく馬たちについて」の冒頭だ。ーーそれにしても、タイトルもサブタイトルもやけに長くてよくわからないわりにとても具体的でいいね。
『風の歌を聴け』の冒頭がやはり思い出される。
「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」
しかしキャリアも盛りに達した作家は、今回のこの長編小説を、いきなりかような抽象的アフォリズムでは始めなかった。『ねじまき鳥クロニクル』の冒頭はこうだ。
《台所でスパゲティーをゆでているときに、電話がかかってきた。僕はFM放送にあわせてロッシーニの『泥棒かささぎ』の序曲を口笛で吹いていた。スパゲティーをゆでるにはまずうってつけの音楽だった》
この日常性、具体性そしてももしかしたら物語性の文言。(今も忘れない記憶になっていて懐かしい。些末な事象の些末な記憶)
1994年から刊行されたこの小説を今再読しているのは、先日『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』を初めて読み、ぜひとも再読したいと熱望したからだ。同対談で村上春樹はこの作品を書いた動機や背景を驚くほど素直に明かしている(以下)
《『ねじまき鳥クロニクル』はぼくにとっては第三ステップなのです。まず、アフォリズム、デタッチメントがあって、次に物語を語るという段階があって、やがて、それでも何か足りないというのが自分でわかってきたんです。そこの部分で、コミットメントということが関わってくるんでしょうね。ぼくもまだよく整理していないのですが。
コミットメントというのは何かというと、人と人との関わり合いだと思うのだけれど、これまでにあるような、「あなたの言っていることはわかるわかる、じゃ、手をつなごう」というのではなくて、「井戸」を掘って掘って掘っていくと、そこでまったくつながるはずのない壁を越えてつながる、といったコミットメントのありように、ぼくは非常に惹かれたのだと思うのです》(『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』)
この時期の村上春樹は「デタッチメントからコミットメントへ」というフレーズで評されるが、この対談での発言が最初だったのだろうか(そんなことも初めて知って新鮮だった)。
もう1つ興味深いのは、そのコミットメントの試みとして、この小説では夫婦の関係を描いている、と見ることができること。
《村上 ぼくの小説の登場人物というのはだいたい独りだったんです。ぼくの小説は両親が出てこないのです。子どもも出てこないのです。それから、奥さんも出てこないことが多かったですよね。(略)ところが、やっと『ねじまき鳥クロニクル』で夫婦というものを書けるようになったんですね。
河合 ぼくはあれは夫婦のことを描いているすごい作品だ、というふうに読んでいますよ(略) なんのために結婚して夫婦になるのかといったら、苦しむために、「井戸掘り」をするためなんだ、というのがぼくの結論なのです》(同上)
調子にのって長々と引用してしまった。期待を越えて調子にのって長々と読書できているから、よけい調子にのってしまったのだ。
この小説は90年代の刊行時に全部読み、世紀が変わって再び通読し、以後たしか第一部だけ再読した。今回これまでになく、あらゆる表現が面白くしっくりきて笑ってしまう。
大事なことをもう1つ。『ねじまき鳥』やコミットメントということには、オウム真理教の地下鉄サリン事件(1995年)が否応なく絡んでいる。対談本でも村上春樹はやはり率直に衝撃を語っている(これについてはまた次回)
続く ↓
https://tokyocat.hatenadiary.jp/entry/2024/03/02/000000