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【2019 輪廻転生】

★忘却の河/福永武彦

 忘却の河 (新潮文庫)


こんなに古い、それこそ忘却されてしまったかのごときこの小説を、それでも今夜だれか一人や二人は読んでいないかと、なんどもツイッターを検索したが、やはりいつも誰も読んでいなかった。出てくるのはbotだけ。でも私は読んだ。

この小説のことを思い出したのは、先日身内で会話しているときに、「自分が子どものころ、家族のある一人が、いつもこんなふうに振る舞っていたけど、あれは実はこんなふうなわけがあったんだと、大人になって初めて知り合点がいった」というあるエピソードがあったからだ。それで再読した。

『忘却の河』にそうしたエピソードがあり、しかもそのエピソードが小説のカナメにもなっていたはずだということが、読んで20〜30年も経っていたけれども、ありありと思い出され、どうしても再読したくなったのだ。

再読して、そのエピソードは記憶に増して重要な役割を担っていることがわかったが、それ以上に驚いたのは、この小説の文章が、もう自分のことを自分が書いているかのごとく、まるで体に金箔が張り付くかのごとく、あまりにもピタッとくることだった!

(どうせ誰も読んでいないんだからテキトウに大げさなことを言っても大丈夫、ということではなく、読んでみれば誰でもほんとにそうだとわかる)

視点人物5人が、それぞれに固く秘めた心のうちを、モデラートのペースで明かしていく。一人ひとり順番に。そうして全体像が徐々にみえてくる。

5人の多くはまるで死んだように生きている。考えたり書いたり思い出したりすることにしか生きる手ごたえを感じていない。しかも、いくら考えても書いても、生きることを覆っているモヤはいっこうに晴れてこない。私がそもそもこの小説に共感したいちばんの理由は、たぶんそうした点だと思う。

それは、生きること全体に対する諦め、家族との関わりや恋人との関わりに対する諦めを思わせる。まさに「生きることに何の意味があろう」というかんじ。ところが―

ところが、そうした諦めをよくよく眺め返してみれば、それは実は、家族や恋人との関わり、そしてまさに生きることに、むしろ「何らかの意味」を探し求める思いの強さの、強い陰として際立っているんじゃないかと、私には思われた。


福永武彦は『草の花』のほうが知られているか。そっちはさらに数年前に再読した。同じく誰かの秘めた心のうちが同じく静かに強く記述される。ともに「サナトリウム系メロドラマ」とも言える? 福永作品ではほかに「廃市」という中編が80年代に大林宣彦の映画にもなった。これまた忘れがたい(当時読んだし視聴した)


私がこれを書くのは私がこの部屋にいるからであり、ここにいて私が何かを発見したからである。その発見したものが何であるか、私の過去であるか、私の生きかたであるか、私の運命であるか、それは私には分らない。ひょっとしたら私は物語を発見したのかもしれないが、物語というものは人がそれを書くことによってのみ完成するのだろう。

――『忘却の河』の書き出しだけど、今回ふしぎなほどピタッときた。最初に読んだときもおそらくピタッときたんだろう。これに似た感触の書き出しとの強烈な出会いをあえて示すとしたら、村上春樹風の歌を聴け』だろうか。

ただし、『風の歌を聴け』のほうは、「いったいこの文章は何なんだ?」という違和感こそが強烈だった。ただ、どうしてもそのまま読み進めずにはいられないと思い込ませる強烈さが、『忘却の河』の冒頭とまったく同程度だった。(村上春樹は今やそうした違和感がもはや親近感のごとくだが…)


しかし忘れるということは死の与えるもっとも恐ろしい力であるにちがいない」 …これっていま私がつぶやいたんだっけ? (違います。『忘却の河』新潮文庫 p.175)

おそらく誰でも、ひとは忘れている時間のほうが長く、ときたま思い出せばそれまで忘れていたことを忘れるのだ。いつもいつも思い出しつづけていたようにつごうよく考えるのだ。よけいな部分を忘れるからこそ、思い出した折にその姿はいっそう鮮明に、まるでその場にいま自分がいあわせているかのように、感じられるのかもしれない。それにしてもわたしたちはどんなに多くのことを忘れて行くことだろう。

それにしてもわたしたちはどんなに多くのことを忘れて行くことだろう。